ここだけの話

今から歌うことここだけの話にしておいてね

逆算はできなくてもいいから

悔しい、思い入れのある曲で、思い通りにできなかったことも、それを言い訳しようとする自分も、人から酷い言いようされることも、それに自分が無力なことも、人を巻き込む力のない自分も。

 

人のこと諦めたくない、人のこと嫌いにはなりたくない、人のこと好きでいたい、できるだけ仲良く楽しくしたい、人の良いところや好きなところたくさん挙げられる人になりたい、誰かが誰かのことで悩んでたら人のいいところを共有して解決できるようになりたい、嫌なところをあら探ししたり、もっと相手の印象を悪くしちゃうようなこと言いたくない、悪い循環にさせたくない、いい空気いい空間安心する空間を作れる人になりたい、

 

器の大きい人間になりたい、もっと大きな視点で包み込めるような人になりたい、自分のことでいっぱいになりたくない、悔しい。

 

 

行きずりの人

最近のこと。インターンシップで高校に研修に行ってる。自分が思ってること考えてることを、いらないプライドや外面を気にするせいでうまく話せなくて悔しかった。私は話すのが下手だ。文章で一回全部書いてから話せたらいいのに。悔しくて、でもすごいなと思う先生はみんな研修や本で努力や勉強をしていることは知っているから、本を読もうと思った。勢いで、その日の終わり、本屋のバイト前に普段絶対買わないビジネス書を買った。アマゾンでもベストセラーになってる本を2冊。読んでみてうっすい内容だなと思った。勢いで買ったことちょっと後悔した。こういう実用書や新書に関しては、ちゃんと中身を見てから本を買おうって決意した。

 

いろんなことに追われている。学祭があって、部活があって、その練習があって、幹部がもうすぐ終わって、バイトが2つあって、ネットの仕事があって、学校の授業があって、地元の友達との集まりがあって、恋愛があって、大事な友達がいて、インターンシップで学校に研修に行って、教採の勉強しなくちゃで、自分磨きしなくちゃで、趣味の時間もほしい、舞台見に行きたい、なんかもう、時間が足りない。やりたいこととやらなきゃいけないこととやれる時間が足りてない。自分は何がしたいんだろー、嫌いなこととかやりたくないことをどんどん後回しにしてやるべきことができなくなっていく。考えたいこともたくさんあるし、後ろめたい気持ちがありながら毎日目の前のことをこなし続けるだけで精一杯。眠りたい。何もしない日がほしい。

 

大事な人とか大事なものにはちゃんと時間を使いたい。好きな人に好きなものに尊敬してる人にはちゃんと好きって伝えたい。なんでこんな文章書いてるかっていうと今夜勤が終わって非常に酔っているから。三日間くらいノンストップで動き続けてかなり疲れた。ラストスパートのこの夜勤が終わったので気持ちが切れた。疲れた。眠い。いい具合にお酒で身体も頬も気持ちもポカポカしている。同時にお酒のせいで自分の不甲斐なさとか、仕事の出来なさとか、今までうまく行かなかったこととか今うまく行っていないこととか全部フラッシュバックして死ぬほど苦しい。私は切り替えが早いし心身ともにタフだと自負してるからこんな気持ちになるのが今だけであることも知っている。

バイト帰りの道で先輩が同僚のうわさ話をしている、どんなにすごく仕事ができる人もみんな仕事が終わればただの人だ。強い気持ちで強い精神でまあいっかって思える人になりたい。適当なところは適当にして、ここぞっていうちゃんとしなきゃいけないところではちゃんとできる人になりたい。

そんなことより私は早く帰ってあったかい布団の中で眠りたい。できるならこの文章が、私が正気に戻るまで誰にも読まれないことを祈る。

 

青春に焦がれる

計約一ヶ月の実習が終わって、ほっとしています。元々志望の校種の実習ではないんですが、ぜんぶが新しくて新鮮ですてきな経験でした。出会った先生がみな素晴らしい人で、子どもの頃にこんな先生に出会っていたら人生がまたなにか変わっていたかもしれないと思いました。

 

実習のことはまたちゃんと文章にして残しておきたいんですけど(もちろん駄目なところは必ずぼやかして)、今日はなぜか、ゆっくりしようって決めて澪スパークリング飲んでチャットモンチーをシャッフルリピートしてお風呂に入った瞬間書きたくなったのが、自分の青春時代のことだったので、それについて思い出してつらつら書いてみたいと思います。

 

 

わたしは中高とずーっと部活で陸上競技をしていたんですが、ほんとうにその期間は自分がそれを続けていることに疑いを持ったことがなくて、当たり前に走っていて、そういう環境に居られたこと自体がとても幸せだったんだろうなと思います。

 

始まりはほんとうに些細なことでした。小学校の時から走るのは好きで、運動会では毎年隣のクラスの女の子と徒競走で競り合うのが、一年に一度の楽しみでした。その子とはプライベートで遊ぶほど仲良くはなかったのですが、中学に上がるとき、その子が「一緒に陸上部入ろうや!」と誘ってくれたのが、いちばんのきっかけでした。当時仲良かった子がこぞってバスケ部に入るらしいので、かなり迷ったのですが、なんとなく自分には団体競技が向いてなさそうだと思ったのと、女だらけの部活が大変そうだと思ったこと、あと顧問の先生が鬼のように怖いと聞いて、やめました。

 

 

結果的に陸上を選んだその選択は正解だったみたいで、特に競技的には悩むことなく、顧問の先生にも恵まれて、もちろん中学生特有の人間関係に悩んだことはありましたが、基本は楽しく部活動を満喫していました。

出会った顧問の先生は、中二の時担任にもなってくれた若い国語の女の先生で、結果的に後々出身大学、学部領域まで、わたしはその先生と同じ道を辿ることになるのですが、卒業してからも付き合いがあるほど素敵な出会いでした。部活動はボランティアで、先生の生徒を思いやる気持ちで成り立っているんだ、と気づいたのもこの先生のお陰だったと思います。

わたしの代は、わたしを部に誘ってくれたその子を含め、一緒に全国に行く子がたくさん出たほど、たまたま実力もあって、それからみんなそれぞれに頑張る目標があって、「努力している!」という気持ちにならなくても、「こいつに勝ちたい」「こいつより早くサーキット回りたい」と毎日の練習で思えていました。自分の負けず嫌いと、周りの負けず嫌いと、それから先生の乗せ方が上手だったんだと、今になって思います。なんにも考えず、がむしゃらに陸上をしていたけど、それでも自然と強くなれる環境だったなと思います。恵まれていたなあ、と今になって感じます。

 

中一のとき、みんなから嫌われていた副顧問の先生がいました。話し方が独特で、語尾に必ず「ねっ」と付く、鍋のフタみたいにのっぺりめの顔に鼻がちょんとついたような、おじさん先生でした。

その人は、わたしがまだ何も知らないままに「跳んでみたらそこそこ跳べたし楽しい」という理由で始めた走高跳を、基礎から教えてくれていました。わたしは先輩と一緒に、何もやる意味がわからないまま、踏切フォームのドリルを一日500回くらいこなしていました。きついメニューではありません、ただ踏切をイメージして、軸を意識しながら片足で地面を蹴るだけです。

 

先輩の「これのなにに意味があるの?地味」という文句を聞きながら、半年ほどやっていたら、突然記録が10センチほど伸びました。府下の大きな大会に出るチャンスと、府下で選抜の合宿に行く権利を得ました。

記録を出した記録会で、その鍋ぶた先生は「お前はもっと上へ行ける、今年度中にまだ伸びる」とポツリと言いました。いつも無表情で何を考えているか読めない先生が、なんの疑いもなくわたしを肯定して期待してくれたことが、とても嬉しかったことを覚えています。そして、高校になって改めて、鍋ぶた先生がはじめに教えてくれたフォームの基礎がどんなに意味があったか、知ることになります。どんなにスランプでも、(のちにやることになる混成競技の練習のために)高跳びに練習時間が割けなくなっても、自信を持って、何も考えずに跳ぶことができたのは、このとき鍋ぶた先生にやらされていた基礎の踏切やフォームが、しっかり定着していたからなんだろうな、と思います。

その先生は、一年で他の学校に飛ばされてしまって、もう二度と競技人生で出会うことはありませんでした。もしも次に出会ったときは、ちゃんとお礼が言いたいなと思います。

 

 

そのおかげもあってか、中学時代は、中3のとき高跳びで全中に出ました。はじめての全国区、はじめての関東遠征、ずっとふわふわした気持ちでいました。

中3年の春、一番お世話になった国語の女顧問の先生が異動になってしまい、最後に一番恩返しできる舞台を、先生に一番近くで見てもらえないことが悔しくて、異動の報告を聞いた3月末の理科室で、みんなで号泣したことを覚えています。先生も泣きながらみんなに最後の「陸上部だより」を配って、先生も悔しいこと、ずっと応援していることを言ってくれました。最後に、ロフトとかでよく売っている、一人ひとりに違う格言が書かれたステッカーをくれました。わたしのは「迷わずすすめ!」と書いてあって、先生はどうしてわたしのことをこんなによく分かっているのだろう、と思ったことを覚えています。そのステッカーは結局どこにも貼れなくて、ずっと裏の黄色いシールが張り付いたまま、大事に残っています。

全中は、あんまり記憶が残っていなくて、でもちゃんと跳べた記録は残っていて、変な感じです。本当にふわふわとしていました。ただなんとなく、アップのときに使った千葉のサブトラックが、いつもの西京極と全然違って、あつくて、不安で、何度も何度も練習で跳んで確認したような気がします。それから、高跳びのバーを超えるとき宙を浮くこの感触が、やっぱり大好きだという気持ちが、いっそう強くなったような気がします。

 

 

 

高校は、完全に部活動で選びました。強豪校で進学校の学校と迷ったけど、もとから2つ以上のことを並行してうまくやれる器用さはなかったし、ずっと高水準で競り合い続けるより、自由な校風で気ままに上を目指すほうがいいと思い、声を掛けてくれた顧問の先生がいる方を選びました。陸上をやめることは、まず選択肢からありませんでした。続けることが、当たり前のように自分の中で決まっていました。

 

全部結果論なんですが、やっぱりこの選択は間違っていませんでした。わたしは学生生活の中で、一番高校生活が楽しかったと、胸を張って言えます。ほとんど陸上しかしていなかった、朝から晩まで、春から冬まで、ずっと陸上をしていたのに、それ以外の青春を多分ほとんど知らないのに、一番充実していて、景色が綺麗でした。たとえ時間が経って風化しているからこんなに綺麗なのだとしても、一生忘れたくはないなあと思います。

 

 

高校時代のことは、書き残しておかなければいけないことが多すぎて、こんな短い時間では何も語れないような気がします。

毎日、朝練に行って、走って、間食して、授業は必要最低限で、あとは全部寝て、テスト用にノートだけとって、お弁当を食べて、寝て、夕方の部活に体力を残して、部活が始まって、走って、走って、跳んで、投げて、筋トレして、走って、夜がとっぷりと深くなるまで、毎日毎日そんなことをしていました。

 

わたしは中学のときに無茶をしすぎて、両足首をやってしまい、高校入学前の春と高1の冬?に手術をしました。それもあって、高校では脚への負担の大きい高跳び一本ではなく、七種競技という、二日間で「100メートルハードル、走高跳砲丸投げ、200メートル、走幅跳やり投げ、800メートル」をこなす種目に転向しました。今思うとどっちが負担が大きいかわからないですね。少なくとも、高跳びを失敗すると次はない、という苦しい精神状況からは、負担が減ったとは思います。

 

入学当初は手術明けで、松葉杖で入学式に出席したし、走れないし跳べないので、砂山にやり投げの棒を黙々とぶっ刺し続ける練習をするおかしな人でした。そんな掴み所のないわたしでも、すぐに受け入れてくれた高校の陸上部の仲間はほんとうにかけがえがなくて、めちゃくちゃに苦しい練習も、夏のアホほど暑い日も冬のアホほど寒い日も、全部一緒にTシャツと短スパ(短いスパッツ)で乗り越えてきた戦友です。同時に、まったくくだらない事で爆笑したり、数少ないオフを活用して色んな所に遊びに行ったり、試合の終わりにきまってくら寿司に行って馬鹿みたいに食べたり、わたしの「ふつうの青春」の思い出をを一手に担ってくれています。今でもたまに集まって、心からその喧騒に安心するのは、この人たちといるときだなあと思います。

わたしができればほんとうに、ずっと失いたくないなあと思う友人も、一緒に走っていたうちの一人です。大学に入ってもたくさん遊んでいたし、今でこそお互いの生活が忙しいことを私がいいわけにしてしまって、なかなか会えないけれど、ずっとその存在を忘れたことはないし、人の気持ちをいたわることができて、昔からわたしがくるしいとき、ほしい言葉を丁寧に包んで渡してくれる、かっこいい友人です。何も返せていない自分がいつも不甲斐ないけど、死ぬときはこの人には伝えたいと思うし、結婚式はスピーチしてほしいなと思うくらい大切なひとです。勝手に重い友情です。これは私信です。

 

高校時代は、顧問の先生に本当にお世話になりました。世界史の、おじさん先生でした。一番出会った先生の中でお世話になった先生です。ほとんど全ての生活を、陸上部の生徒に注いでくれていたのではないかなと思います。100人近い部員をほぼ一人でまとめ、毎朝毎晩私達の練習に張り付いて見て下さり、土日の遠征には、どれだけ遠くても、どれだけ出場人数が少なくても、必ず着いてきてくれました。今やっと、その恐ろしいほどの献身がわかります。

大きな大会に出るとき、怪我をしたとき、スランプのとき、不安で後ろ盾がないような気持ちのわたしを、いつも無条件で肯定してくれていた気がします。「お前は努力ができる奴だ。諦めないし、図太さもある、大丈夫だ。」といつも声を掛けてくれて、「僕にできることはこれくらいしかありませんから、」と、大会前日で緊張するわたしに少し下手なマッサージをしてくれたり。わたしはその全てから、先生の素直な「生徒を支えてやりたい」という気持ちを汲み取ったし、そのなんの他意もない、純粋な気持ちを受け取って、元気や頑張りたいと思う気持ちを貰っていました。彼がわたしの顧問の先生だったことが誇りだったし、彼に教わったのは技術だけじゃなくて、たくさんの人とつながって、助けてもらうこと、頼ること、感謝すること、逆に助けてあげること、尽くすこと、人として大事なたくさんのことでした。高校の先生になりたいと思うようになったのも、彼がきっかけでした。感謝してもしきれないくらいです。今度また、顔を見せなくちゃなと思います。

 

 

 

 

高校陸上で一番鮮烈に記憶に残っているのは、やっぱり高3の時、最後の全国インターハイの記憶です。

高2のとき、あと数点で全国の表彰台を逃して、そのリベンジを果たした日でした。 

 

競技中の記憶はなかなか鮮明に残っていて、夏の競技場の、火傷するくらいに熱くなった赤いタータンや、マイルリレーを応援する学校のコールの応援、スターティングブロックを蹴るガシャン!という音、クーラーの掛かった招集所から一歩出て、レースに出てゆくときのあの気持ち、ぜんぶ、思い出すだけで全身の毛穴が広がってその場所にいるように感じます。

 

わたしは失うものがなくなるほど本番に強い質なので、全国だとか、これ以上勝ち上がらなければならない大会がないとき、「じゃあ怖がって失敗するより、思いっきり楽しんでやって失敗したほうがいいじゃん!」と開き直ることが得意でした。ベストが出るのはいつも全国という、よく分からない性格でした。

だから、最後の全国インターハイはとにかく楽しかったです。わたしは7種目の中で、やっぱり一番高跳びが好きだったのですが、この時の楽しさは格別でした。スタンドにはいつもの何倍もの観客がいて、でも競技に集中する選手のためにとても静かで、誰もわたしのような平凡な選手に注目していないからとても気楽で、その大きな会場で自分のルーティンをして、自分の世界に入って、何も考えず、高く上がることだけを考えて、バーを越えて、バーに1ミリも触れずに、脚をすり抜いて、赤いマットにぼふりと落ちる、そこになんの介在もなく、自分との戦いであるところが、最高にこの競技の好きなところで、最高に気持ちが良いところでした。背面跳びなので、跳んだあとマットに仰向けに倒れて、ポールに残ったバー越しに見えた真っ青な空は異常なほど清々しくて、ずっとここで、この緊張感の中で跳んでいたいと思っていました。

 

好きなのは高跳びで、得意なのは最終種目の800メートルだったのですが、これだけはいつもいつもメンタルがやられていました。戦法として、得意な800メートルで最後に順位を逆転し、入賞に食い込む形だったのですが、6種目終わって体力がゴリゴリに削られた後の800メートルという長さは、本当に心が折れます。他の選手もそれは同じで、地方の大会では「もうみんなで手を繋いでせーの!でゴールしよう」などと言いながら招集所で待機していた記憶があります。わたしはいつもこの競技の前に走るのが嫌すぎてテントで号泣していました。特にわたしの場合、ここで本気を出し尽くせなければ順位が見えてこないので、何が何でも必死になる必要がありました。組の中で必ず一番で帰ってくる必要がありました。メチャクチャなプレッシャーで、一旦「絶対に無理や〜嫌や〜しんどい!帰りたい!」と泣きました。こういうときや、他の種目で大コケしたりしてへこんだとき、必ず母がお尻を叩いてくれました。大丈夫やからしっかりし、できる、ここで頑張れば入賞できる、といつも奮い立たせてくれました。

 

わたしの陸上競技生活のなかでもう一人、感謝してもしきれないのは母親です。母の物理的、精神的なサポートがなければ絶対に無理だったなと思います。必ずお弁当を作り、わたしが競技に集中できるように生活を請け負ってくれ、混成競技に必要な膨大な量のスパイクやユニなど、必要なものは必ず揃えてくれました。甘えすぎていたくらいでした。でもそれがあったから、わたしは何も考えずにここまでがむしゃらに競技に打ち込めていました。大事な試合には必ず来て、わたしの精神を安定させてくれました。顧問の先生や友人とはまた違った、わたしの奮い立たせ方を知っている唯一の人でした。高2で負けた全国IHの日から、この人に恩返しできるのは結果を出すことしかない、と思い、それを必死にやってきました。

 

七種競技は一日に3〜4種目×二日間やるので、競技が始まるのは朝一で、最終種目はいつも夜でした。全国のこの日も例に漏れず、最後の800メートルは夜六時頃だったと思うのですが、大きな大会はナイターの光がついた中で走ることができます。わたしはその全国大会の特別感が、とてもわくわくして好きでした。最終種目なので、ひとりずつカメラで抜かれながら選手紹介があります。薄暗くて、白い光でスタンドとバックストレートから照らされたタータンを、静寂の中で走り出す感覚は今も覚えています。ただただ必死でした。あんなに嫌だったのに、招集所から出てスタート位置に付き、走り出せばもうあとは何も考えずに、全力を出し切るだけでした。タイムを点数にして計算し、合計得点を競う七種競技では、0.1秒でも早くゴールすることが勝負のゆくえを左右します。走っているとき、たくさんの応援の声が、罵声のような大きさで鳴り響いているはずなのですが、必死のわたしにはほとんど聞こえたことはありませんでした。でも、確かにスタンドのあの場所で応援してくれている人がいるはず、という事実は、確実に私を勇気づけました。

 

 

 

何回も何回も話が逸れて、とても長くなってしまいましたが、わたしが一番この文章で書きたかったのは、全国の最後に表彰台から見た景色のことです。

すべての競技が終わり、完全な夜になり、真っ暗の空をナイターの白い光が照らしていて、スタンドにはたくさんの人がいる中、白い台の7番目の位置で、わたしは賞状を受け取りました。7番目なんて、もっともっと本気で陸上に人生を賭けてきた人からしたら、大したことがないとしても、悔しさの残る順位だと言われたとしても、わたしには本当に意味があることでした。これでやっと、6年間がむしゃらに、色んな人に支えてもらいながらなんとかやってきた陸上を大団円にすることができたな、と思いました。飛び抜けた才能も、飛び抜けた忍耐力もないわたしがここまで頑張れたのは、わたしを「お前は頑張れる」と信じてくれた人のおかげでした。母や顧問の先生をはじめ、いろんな形でお世話になった人に、これでやっとちゃんと胸を張って恩返しできたなと思いました。それから、やっと自分の努力を認めて、よく頑張ったね、これで悔いがないね、と、思い残すことなく、自分のアイデンティティの一部だった「陸上」から引退することができました。

賞状を受け取ったあと、くるりとスタンドと逆側を向いて、優勝校の校歌を聞きながら、バックストレート後方に上がってゆく優勝者の校旗を見つめる時間があります。青春、という言葉を聞いて一番くっきりと思い出すのは、その白い台の上から見た競技場の景色です。

きらきら強く光って輪郭をなくした白いライトと、夜の中でつやつやに照らされた赤いタータン、芝生、夜の少し冷たい風、走る人がいなくなった競技場はとても広く見えて、そこで確かに、ここから見た景色は、絶対にこの先一生、忘れられないだろうな、と思いました。今もたまに思い出して、がむしゃらになっていたあの頃、なにかにすべてを賭けて熱中していたときのことを、懐かしく思います。

 

母には、全国大会の終わりに、泊まっていたホテルで「あなたのお陰で頑張れて、あなたの為に頑張ったよ、恩返しができてよかった」と、ちゃんと伝えられました。母はやさしく頷いてくれました。自己満足かもしれませんが、いろいろな感情がすっきりした瞬間でした。

 

 

 

わたしにとって陸上競技は、自分を説明するときに絶対に抜かせないくらい大事な、人生の半分くらいを占める要素で、そこでした経験はたぶん、わたしにしか出来なかったことやわたしにしか分からないこともたくさんあると思います。大学になって続けなかったことで、陸上競技の世界でしか生きてこなかったわたしの世界は確実に広がったけど、どうすれば「わたしはこういう人です」と説明ができるのか、いつも悩んでしまいます。陸上と関係ない世界でのつながりがたくさんできたことは嬉しいし、それはそれで望んでいたことだけど、その人たちと一緒にいるとき、わたしの中でわたしのしてきたことは、優先順位が下がって、勉強や、バイト、恋愛とか、別の青春を送ってこなかった自分が、あんまり価値がないように思えてしまう。うまく言えないけど、自分のまんなかにあって、胸を張って幸せな青春だったと思えていたものがくすんでしまった気がしてしまった。だからちゃんと書き記して、わたしはこういうことをしていたんだ、って思い出せるようにしておきたい。こういうことを思っていたんだと思い出せるようにしておきたい。

そのうえで、わたしの青春は、陸上から切り離された今の生活や今の自分に、いったいどんな糧になるのか、考えられるようにしたいなと思います。それはそれ、これはこれではなくて、わたしがしてきたことと、これからしたいことが、ちゃんと地続きになるように、考えていたい。青春に焦がれて、「あの頃はよかった」と思うのではなく、ちゃんと役に立ってるんだよ、って、自分に自信を持って言えるように、これからも生きていきたいな、と思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

敬体が崩れてしまったけど、まだまだ書かなければならないことは書き終わらないけど、陸上の話はこれで終わります。古い記憶もあるので、ところどころ間違って覚えているところもあるかもしれません。でもそれはご愛嬌ということで。赤裸々すぎてたぶん、あとで恥ずかしくなりますね。ここまで読んでくれてありがとうございました。

 

ずっと四時間近くお風呂の中で書いていたので、指がしわくちゃです。途中からシャッフル再生をやめて、チャットモンチーの「春夏秋」を一曲リピートしながら書きました。澪の酔いも覚めたので、そろそろ眠ろうと思います。

 

 

好きな曲の超オススメポイント書くだけ

前回の記事、ほんとはそっと置いておいて、気ままに覗いた人がたまたま発見するくらいの文章にしておくはずでした。でも一日寝かしたらせっかく書いたものなんだから見てもらわなきゃ報われねえ…と気が変わったのでエイヤッとツイッターに貼り付けてみたら、思っていた100倍くらいの人に見てもらえて、ラインやDM、リプ等でたくさん感想もらって、本当に文章というのは誰かに読んでもらってはじめて価値があるんだなあと思いました。同じような経験をして、共感した、ということをわざわざ伝えてくれる人も何人かいて、しんどいことを思い出させてしまったかもしれないという申し訳無さはあったけど、誰かと哀しさや辛さの経験や、それで感じたことを共有して、自分だけじゃないということが知れるだけでも、とてもわたしにとっては心が救われることでした。文章を書いて、文章を表に出して良かったなあと、それだけで本当に思えました。ありがとうございました。





でもあの記事の冒頭にも書いたように、わたしはあの出来事を文章を書くことのきっかけにしただけでありまして、これから書いていく文章はたぶんあんなに重量があるものではないと思います。文章量だけじゃなくて、内容の重さのことです。あの文章を想定外にいろいろな人に見てもらえたおかげで、あれより頑張って文章を書かなければならないような気がして怖いけど、あれはわたしが経験と感情がとてもタイムリーに合わさって書けた文章なので、あれ以上のものを書けるつもりはさらさらありません。だからまた思ったことを脊髄反射で吐くツイッターのように、書きたいと思ったときにつらつら書きたいと思います。誰かに見てもらうことにするのかは、その後決めることにします。たぶんこの調子でいくと恥ずかしくなって全消し黒歴史になることが予想されるので…。



それでも、見て見て!って書いた本人が言ってみんなに見てもらえるのは恥ずかしいけど、そっと置いておいたものが読まれて、読んだよ!と言ってもらえることはやはり嬉しいので、そんなふうにあれたらいいなと思います。期待しないで読んでもらえたら嬉しいですということです。言い訳がましくてごめんなさい。











前置きが長かったんですけど、実習がまさかの台風で一日さよならしてしまったおかげで、明日早く起きなくても良くなってハッピー、お酒を飲んで音楽を聴いて過ごすぞ!となったので、わたしの好きな音楽の話をしたいと思います。





わたしは小学校5年生のときの当時イケイケだった女の子の友達に、流行りの曲を月1くらいでCD-ROMに焼いてもらっていたのですが、それが音楽を好きになるきっかけだったなーと思います。今思えば多分YOUTUBEからmp3 でDLして焼いてた音源だったと思うので(詳しくは知らないですけど音質とかMVの最初の部分の音も入ってたことから推測するに)、完全に違法だったんだろうなと思いますが…。それから親にウォークマンを買ってもらって、もっとたくさん聴くようになりました。実家から走って1分のところにあるゲオの、新作と書いたコーナーのCDを片っ端からランキング順に借りていっていた小学校終盤時代。レンタル半額のタイミングを狙ってお年玉を消費してました。今もゲオには半年に一回ほどCDを爆借りに行くのですが、たぶん本当にその近所のゲオに使ったお金の総額はちょっといいギター一本買えるかもしれないくらいだと思うので、考えたくないです。

と言っても、2010〜12あたりの邦楽ランキングに連なっている音楽なんて似たジャンルのものばかりなので、当然聴く音楽や好きになる音楽は偏りまくっていました。わたしがそれから中学卒業辺りまで永遠に聴いていたのが絢香でした。絢香が活動休止して悲しみに暮れて、寂しさを紛らわすように同時進行でボーカロイドにハマりました。



今聴いているのはけっこう邦楽のバンドが多いんですけど、そうなったのも高校の友達や大学の軽音の人たちにジャンルを広げてもらったおかげです。

高校の時にRADWIMPSを好きになって、そればっかり聴いていました。初めて聴いたのは、中学2年の時に担任かつ部活の顧問の先生だった人にお勧めされて、CDを借りたときだったんですが(確か『絶体絶命』)、「何だこの人らの歌旋律ないやん……何言ってるかわからん…」が最初の感想だったと思います。何故か高校になって突然よさがわかり、狂ったように聴きました。

チャットモンチーも高校の友達に教えてもらった気がします。「真夜中遊園地」と「片道切符」という歌が好きやねん、と聞いて聴いてみたら、気づいたら一番好きなバンドになっていました。

それから、高校のとき好きなweb小説の作家さんに出会って、崇拝するようにネトストしてたら、その方がYUKIを好きでよく曲をイメージして小説を書いていると知り、YUKIも狂ったように聴くようになりました。それが派生してJUDY AND MARYも好きになりました。

大学に入ってからはhump backというバンドや、きのこ帝国というバンドにも出会って、自分の気持ちを満たしてくれるバンドがたくさん増えました。



なんで突然自分の音楽歴史とか好きなバンド語りになったんやろうという感じなんですが、あんまり考えずに文章を書くと決めているのでこれでいいのです。



それでは、ここでわたしの好きな曲のここがいいコーナーをしたいと思います。好きな曲なんぞ星の数ほどあるのですが、今から上げる好きな曲の基準は「突然その曲を一曲リピートで聴くことしか体が受け付けなくなった」状態になったことがあるかどうかです。それではどうぞ。







シザースタンド / RADWIMPS

シザースタンド

シザースタンド



これは今も定期的に「一曲リピート状態」に陥ります。この曲を聴いているときは何もしなくてもよくて、自分のすべてを諦めていても許されるような、退廃的な感じがとても好きです。歌詞が好きとかじゃないんですけど、音が気持ちいいです。





お風呂上がりの / RADWIMPS

お風呂あがりの

お風呂あがりの



またRADWIMPSなんですけど、これもアコギとカホンとが気持ちよく落ち着かせてくれて、「一曲リピート状態」になります。

「ああ 美味しいカレーが 食べたいな」だとか、「ああ 美しい映画が 観たいな」だとか、

「お腹も眠気もいやらしさも ひと通りは満たしたあとで 襲ってくるあの寂しさはなに この世の何も満たせないとばかりに」

「遊ぶように生きれたらいいのにな そうやって僕らは来たけど 遊ぶにもコツがいるってことを わかり始めた僕たちは」

この曲は歌詞がとても好きです。放心しながら脱力して聴きます。主にお風呂に浸かりながら。





たしかなこと / 絢香

たしかなこと

たしかなこと



言わずとしれた小田和正の曲の絢香バーなんですけど、あんまりによすぎて、永遠に聴いていられます。こんなに聴いてしまうのはきっと原曲が良いせいなんだ、と思って小田和正のCDも借りて聴いたんですけど、やっぱり絢香の声でカバーされたのが一番好きなんですよね。「自分のこと 大切にして 誰かのことそっと 想うみたいに」って歌詞を、めちゃくちゃ丁寧に歌う繊細な声とか、泣けてくるんですよね。

あと「いちばん大切なことは 特別なことではなく ありふれた日々の中で君を 今の気持ちのまゝで 見つめていること」っていう歌詞よすぎですよね





CAT WALK / チャットモンチー

CAT WALK

CAT WALK



チャットモンチーは基本的に好きですけど、なんか「一曲リピート状態」になる曲に選ばれるためには「どんな精神状態でも受け入れられる曲」であることは必須事項なんです。チャットモンチーはその点明るい気分のときしか聴けない曲もあってシャッフルで聴くと大変なのですが、CAT WALKは本当にふとした瞬間にこの曲が頭の中に流れてきます。そんで今すぐに聴きたいとなります。

「でも誰かに残った思い出は生き続けるよ でも誰かに残った思い出はきっと生き続けるよ」って、深すぎますよね。





やさしさ / チャットモンチー

やさしさ

やさしさ



この曲も、ぜんぶ駄目だ、という精神状態になったときに聴くとゆるされた気分になれます。

「明日ダメでも 明後日ダメダメでも 私を許して それがやさしさでしょう」

そんな気持ちで誰かわたしに接してくれ、それが無理ならせめてわたしはわたしにそう接したい、と思います。





世界が終わる夜に / チャットモンチー



この曲は冒頭のギターソロとドラムのどんどんたん!だけでもう好きです。最初から最後まで絶望的な感じが好きです。頑張らなくてもいい気持ちになります。

「わたしが神様だったら こんな世界は作らなかった 愛という名のお守りは 結局からっぽだったんだ」





春夏秋 / チャットモンチー

春夏秋

春夏秋



この曲も最初のドラムのどんどんどん!だけで好きです。そんな曲ばっかりか。チャットモンチーはこうやって挙げてみると、思ったより「一曲リピート状態」に適した曲が多いですね。紹介した曲ばっかりでシャッフル組んでもらったらめっちゃ素敵な夜を過ごせますので是非。ちなみにこの曲はPVを後出しで見て仰天しました。曲は鬱ですけどPVは鬱じゃないように見せかけた鬱なのでびっくりです。

「短い命の花びらがきれいだ」からの、たたみかけるみたいな「あなたを忘れる時間がない」の連呼がしんどいです。でもそれがいい。





愛捨てた / チャットモンチー

愛捨てた

愛捨てた



チャットモンチーばっかりですけどいいですか。いいですよね。

この曲は歌い出しから好き、となります。それからサビでもう一度好き、となります。メロディラインが天才だなってなります。あ、でもこれは一曲リピートはできないですね…なんかこう強すぎて…曲が…3回聴いてしばらく満足します。どうしよう。でもやっぱりどさくさに紛れてお勧めしたいので、消さずに置いておきます。

「こんなに悲しい夜でさえ やっぱりお腹は空くのだから 私は まだ 人を好きになるのでしょうか」

くみこん天才だなあ。





他にもチャットモンチーの紹介したい曲めっちゃあるんですけど、「一曲リピート状態」になるタイプの好きな曲を紹介するという趣旨から離れていってしまうので、この辺にしときます。

ただ上の選曲見ていただいたらわかると思うんですけど、わたし「告白」「生命力」「表情(カップリング集)」っていうアルバムばっかり聴いてるんですよね。ほんとうにいい曲多くて。全部好きです。だからこの3つだけでも是非聴いてください。いやもうおすすめするまでもなく売れてるんですけど。なんなら曲名眺めるだけでもいいので。是非聴いてください。



告白

告白

生命力

生命力

表情<Coupling Collection>

表情







風化する教室 / きのこ帝国

風化する教室

風化する教室

  • きのこ帝国
  • ロック
  • ¥200



正直きのこ帝国はいつ如何なるときに聴いてもシャッフルでいけるみたいなところはあります。どの曲でも一曲リピートに適している。あと季節によっても左右される。例えば、夏の夜はどうやっても「夏の夜の街」を聴きたい。でもその中でもよりすぐりのいつでも聴ける万能リピート曲(主観)の一曲がこれです。

こころが落ち着きます。寂しかったり静寂の中にいても、それが普通だと思えます。

「記憶は想い通り風化する 窓際で、きみは外ばかりみていた」

「深海のね 魚たちは 浅瀬ではね 死んでしまうの」





名前を呼んで / きのこ帝国

名前を呼んで

名前を呼んで

  • きのこ帝国
  • ロック
  • ¥250



これもRADWIMPSシザースタンドとかと似たような括りです、わたしの中で。大事なものにずたずたにされたい気分のときにリピートして聴いています。大事なものを大事にしたいときもリピートして聴いています。

この曲は歌詞のどこを取り出したらいいかわからないくらい、全部の歌詞が好きです。たぶん歌詞を全文見てもらったほうが早いです。

http://j-lyric.net/artist/a059505/l03846e.html





ばらの花 / くるり



くるり好きな人からしたら何言ってんの?定番すぎでは?という感じだと思うのですが、私はこの方向の音楽を聴き出したのが大学で偉大なる先輩方に出逢ってからなので、こんなに明るいのに、心地良くて、ずっと聴いていられるというジャンルが初めてなので許してください。

その先輩方が仰ってたんですけど、くるりもどんな時もシャッフルでずっと聴いてられるんですよね。きのこ帝国とは違っていい方向 で気持ち的に受け入れやすいんですよね。心地いいです、なんでだろう。

「雨降りの朝で 今日も会えないや 何となく でも少しほっとして」

「安心な僕らは旅に出ようぜ 思い切り泣いたり笑ったりしようぜ」





赤黄色の金木犀 / フジファブリック

赤黄色の金木犀

赤黄色の金木犀

すみません、くるり繋がりで言わずとしれた名曲なんですけど、フジファブリックはこれがいちばん「今どうしてもこれが聴きたい」となることが多いです。若者のすべてよりも多いです。今くらいの季節一番聴きたくなります。そして絶対に泣きます。

「赤黄色の金木犀の香りがして たまらなくなって 何故か無駄に胸が 騒いでしまう帰り道」

全文好きでどこを引用したらいいか分からなかったので、サビで。





戦争を知らない大人たち / My Hair is Bad

ここにきてマイヘアという感じなんですがこの曲と卒業だけを一ヶ月くらい一曲リピートで聴いていた時期がありました。めっちゃ好きです。今どきの流行りの男声バンド、見分けつかないのと陽のオーラがきつすぎて苦手なんですが、この人らだけはするりと受け入れられます。メンヘラだからですかね。





首なし閑古鳥 / 米津玄師

首なし閑古鳥

首なし閑古鳥

  • 米津玄師
  • J-Pop
  • ¥250



わたしはちょうど全盛期にボーカロイドが好きだったので、米津玄師は「ハチさんが自分の声でデビュー」っていうイメージのほうが強いのですが、アルバム一枚目と二枚目が最強に好きで、ずっと聴いていました。その中でも一枚目に入っているこの曲は、意味わからない歌詞の中にやさしさがあって特に好きです。

「なんとも歪な 形で生まれて 為す術なんてなかったけど あなたによく似た 心があるのさ それさえ確かであればいい」





眼福 / 米津玄師

眼福

眼福

  • 米津玄師
  • J-Pop
  • ¥250



これも米津さんの二枚目のアルバムなんですけど、めちゃくちゃやさしい歌です。シザースタンドに似た雰囲気のタイプで好きです。

「きっとあなたと私はいつまでも一緒にいられない 何か食べようか ここで話をしようか」

「望むのは簡単だ あなたのいる未来が ただこの目に映るくらいでいい 私はそれで眼福さ」



米津さんの3枚目以降のアルバムは、なんか無理になってしまってちゃんと聴けてないです。きらきらした陽の成分が多くなってしまった。あ、でもLOSERは米津さんのダンスが格好良くて好きでした。





朱色の砂浜 / みきとP feat.あり

朱色の砂浜 feat.GUMI

朱色の砂浜 feat.GUMI

  • みきとP
  • アニメ
  • ¥250



米津さんつながりで。わたしはボーカロイドを曲をP(曲作った人)ごとに聴くタイプなんですけど、その中でもみきとPの作る曲が全部好きでした。特に朱色の砂浜は、冒頭のギターのカッティングが好きすぎて永遠にリピート再生で聴いてました。GUMIのもいいんですけど、ありさんという人が歌ったバージョンがとても好きです。みきとPの曲は他にも刹那プラスとか、心臓デモクラシーとか、この頃の曲はだいたいカラオケで歌えるなあ。





different ways / Superfly

Different Ways

Different Ways

  • Superfly
  • ロック
  • ¥250



Superflyも、激しいイメージの曲多いんですけど、この曲はめちゃくちゃ定期的に「一曲リピート状態」になります。遠い故郷に帰っていくときみたいな哀愁があります。でもちゃんと恋愛の歌です。この曲のイントロがどうしても聴きたいときがある。

「散らばった愛にはきっと 行くあてがあるのでしょう でもね 息もできないくらい 涙ながれるのは何故」





汽車に乗って / YUKI

汽車に乗って

汽車に乗って



YUKIも基本的に陽の成分が強くて、あまりしんどいときは聞けないのですが、この曲はとてもおっとりしていて心地よいです。ガタンゴトン、っていう汽車の音をイントロに入れちゃうという自由さ。幻想的で不思議な音が、何者でもない気分でいさせてくれます。ほんと落ち着く。

「待ち合わせは夕日が丘 アカシアの遠い木陰 きみは小さな白い花びらを髪につけて」

「もしあの日に帰れるのならば おもいきり抱きしめようか 夢の場所へ揺られながら 汽車に乗って」

YUKIちゃんの曲は日本語がうつくしくて、うっとりします。





相思相愛 / YUKI

相思相愛

相思相愛



これはさっきのYUKIの曲や、なんなら今までのとは全く違う方面で「一曲リピート状態」になる曲です。イントロのジャカジャカしたギターやらピアノやらの混ざった音が天才的に好きで、無理してなくて、これを聴いたらいつでも明るい気持ちに切り替えられる気がします。本当に好きです。

「君を愛している 僕はいつも泣きそうだ」

「相思相愛の理想形は えぐっても暴いても美しい詩だったよ そう思うだろう?」

「そのキスが教えてくれる 僕はいつも最強だ」







COZMIC TRAVEL / SOUL'd OUT

COZMIC TRAVEL

COZMIC TRAVEL

  • SOUL'd OUT
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥250



先程の相思相愛に続いて、また180°違った方向で「一曲リピート状態」になる曲その2です。圧倒的にこのリズムの中毒になります。わたしはその界隈には全く知見が無いんですけど、ラップ?がめちゃくちゃかっこいいです。3回くらい聴いたら戻れなくなります。なんでこの曲に出会ったのかは忘れました。















お酒飲みながら無我夢中で書いてたら投稿できないくらいの文字量の多さになりました。なんでだよ。暇と心の余裕って凄いですね。

結局今回のおすすめしたい曲の定義がよくわからなくなったんですけど、気分が沈んでても永遠に垂れ流して聴ける、たまたま流れてきた曲が「うわッ明るい、今の私には受け入れられない、無理だ」とならない曲をおすすめしてる感じになりました。そんな気持ちの時ありませんか。わたしはめちゃくちゃあります。そして「一曲リピート状態」を通り過ぎるとスコーンと元気になれます。単純なので。

わたしは曲を聴くとき、わりと歌詞先行で聴いちゃうんですけど、本当に日本語的にも素敵な曲ばっかりなのでよかったら歌詞ググりながら聴いてみてください。iTunesしかリンクつけなくてすみません。Youtubeにもある曲あるのでぜひ検索を。





とりあえず一旦これで終わります。また恥ずかしくならなければ一人語りさせてください。

おじいちゃんについて

前々からなにか文章にして残すことをしてみたいと思っていたのだけれど、きっかけがなかったのでツイッターという媒体でしかそういうことをする機会がなかった。

でも今日ずっと一緒に住んでいた母方の祖父の葬儀が終わって、その後何気なく見ていたいつもネトストしてるツイッターアカウントのはてブロにたまたま、同じようにおじいちゃんが死んだことを記事にしているのを見つけて、なんかの縁かもしれない、とぼんやり思ったので、平成最後の8月も終わるし、一区切りだし、私も少しずついろんなことを始めてみようかなと思う。まあ、すぐに飽きて存在を忘れるのかもしれないんですけど。

 

 

 

わたしは小学二年生のときに今の家に越してきて、それからずっと父母妹と、母方のおじいちゃんとおばあちゃんと一緒に暮らしてきた。

二世帯住宅のせいで、中学に上がってから友達を家に呼んだりすることはほとんどしたことがないし、ゆっくり人と電話できるような自分の部屋もないけど(ちゃんとした仕切りがなく会話が筒抜けだし、夜中に電話すると煩いと怒られる)、家に帰ったら絶対に誰かがいて、世話焼きのおばあちゃんかお母さんが必ずご飯を用意してくれていて、家族に関して寂しいと感じることは今までいちどもなかった。高校や大学に上がって、いろんな家庭環境の友達と出会って、すっごくこれって恵まれてることなんだろうな、と思うようになった。

 

おじいちゃんは元気なとき、わがままで口うるさくて、テレビを見てたら絶対に出ている芸能人の悪口ばかり言うので、「うるさい!ちょっとはだまっとり!」と叱るおばあちゃんとよく喧嘩していた。お酒とたばこも大好きだった。でも知識人で、テレビのクイズ番組で出題される雑学や政治関連の問題にさらっと答えたりしていて、賢いんだなあって思っていた。わたしはあまり自分からおじいちゃんに関わりに行くことはなかった。でもたまに用があって二階のおじいちゃんの部屋に入ったら、たばこの匂いと一緒に、おじいちゃんは孫のわたしをやさしく迎えてくれた。

 

おじいちゃんは去年の暮れくらいに怪我をしてあまり歩けなくなってから、認知症が進んできて、ここ数ヶ月は特に大変だった。おじいちゃんの部屋を二階の大きい方の部屋と交代して、ベッドを置き、自宅介護のように生活するようになった。

おばあちゃんは毎日病院やケアセンターを往復しながら、おじいちゃんのわがままに文句を言いながら、でも当然のようにおじいちゃんの世話をしていた。二階でおじいちゃんが風呂に入りたくないと怒鳴る声と、おばあちゃんのきいきい声が家の中に響き渡ることも毎日のようにあった。そのたびにお母さんはため息をついて二階に上がっていった。わたしはいやだなあ、と思いながら、イヤホンをして何も聞こえないようにしていた。

 

今から一ヶ月ほど前のある日、授業が全休だったので、平日の昼間におばあちゃんとわたしとおじいちゃんの3人しか家にいない日があった。一階の自分の部屋で作業していたら、おばあちゃんがニ階から助けて!と叫ぶのが聞こえた。何事かと思って向かったら、介護用のベッドからおじいちゃんの上半身が転げ落ちていた。「おばあちゃんではあげられへんから、あんた、ベッドに上げたげて。あんたできる?」と、少し動転しながら半分泣きそうな声で言うおばあちゃんに、大丈夫やから、と冷静に声をかけて、呆然とした顔をしているおじいちゃんを抱き上げてベッドに戻した。おじいちゃんがほとんど二階のみで生活するようになってから、顔を見るのも久しぶりだったから、あんまりに華奢で、細くて白くて、呆けたおじいちゃんをちゃんと見たのも初めてで、わたしは直視できなかった。抱き上げたときもあんまりに軽くて、おじいちゃんの目線はわたしに合わないまま「おおこわい、こわい、落ちる、」を連呼するだけで、本当にこの人があのおじいちゃんと同じ人なのかと思った。抱き上げて戻したあと、そそくさと一階に戻って、何もなかったように過ごした。どんどん弱っていっているおじいちゃんを受け入れるのが怖かった。その2週間くらい後、おじいちゃんは近所の大きな病院に入院することになった。

 

 

おじいちゃんもう長くないかもしれん。とお母さんから聞いて、数日後に、本屋でバイトをしていたら、「もう今日明日であかんかもしれんらしい、今すぐ病院にきて」と電話がかかってきた。夜の9時頃だったから、一旦家に戻ってタクシーで急いで病院に向かった。その間、わたしはおじいちゃんになんて声をかけよう、最後に伝えるべきことって何なんだろう、ありがとうと言うべきなのかな、とか考えながら、どぎまぎ過ごした。病室に着くと、管にたくさん繋がれたおじいちゃんが、肩で息をしながら寝ていた。お母さんの妹も車で一時間半かけて飛んで来て、家族大集合になった。おばあちゃんがみんな来たよ、と声をかけたら、おじいちゃんはパッと目を開けて、ちゃんとわたし達一人一人を見た。なんて声かけたらいいかわからなくて、遠くから見ていたら、お母さんやおばあちゃんやお父さんが、「〇〇(名前)やで。ちゃんとここにいるで。あともうちょっと頑張り。」と手を握ったりほっぺたに触ったりしながら笑顔で声をかけていて、こういう時どうしたらいいか、大人はちゃんと分かっているんだなあ、とぼんやり思った。それから、ありがとう、なんていう言葉は、この場には全然適切じゃないなと思った。わたしと妹も促されて、わたしはおじいちゃんに「〇〇やで。おじいちゃん、わかる?ここにいるよ」と声を掛けた。おじいちゃんは、その時意識がしっかりしていて、みんなにああ、〇〇か、とちゃんと返事をしていたけど、わたし達を見て、「当たり前や、わかるわ、大事な大事な…」と言った。それから目の端から涙を流して、わたしたちの方に手を差し伸べようとした。大事な大事な、孫やねんから、と続くことがわたしにも妹にも分かって、妹もわたしも無言で泣いていた。おじいちゃんの手には、管を引き抜かないようにカバーようなものがはめられていて、自由に動かなかったけど、わたしたちはその上からしっかり手を握った。おじいちゃんはその後、眠ったり起きたりを繰り返した。

2時間ほどそうやって家族で過ごしていて、お母さんは「子どもらとお父さんは、明日朝も早いからもう帰りなさい。」と言った。妹は泣いて首を振ったけど、「明日も会えるから、な」と言われ、渋々頷いた。明日も会えるかどうかは、全然確実じゃないことはみんな分かっていた。おばあちゃんが「〇〇(私の名前)らもう帰らはるしなあ、」と声をかけると、おじいちゃんはまたパッと目を覚まして、「そうか、お母さんの言うとおりにしい、」と言った。それから起き上がって見送ろうとした。久しぶりにこんなによく喋って元気なおじいちゃんを見たというほど、おじいちゃんはしっかりしていた。ほなまた来るからね、と声を掛けて、もう最後になるかもしれないおじいちゃんの顔をしっかり見て、うちへ帰った。

 

その日の夜中3時、おばあちゃんやお母さん、伯母さんに見守られて、眠りながらおじいちゃんは亡くなった。私はそれを、朝ゆっくり眠って起きてからお母さんに聞いた。数時間前まであんなに元気やったのに、それからこっくり眠らはって、苦しまずにすっと死なはったわ。入院する直前までお酒も飲んで、お菓子食べて、好きなようにしてはったし、いっぱいの家族に見守られて死なはったから、きっと幸せやったやろな、と、おばあちゃんは笑っていた。

 

 

お葬式は親族だけで行った。わたしは喪主側でお葬式に参列したことがなかったから、いろんなことすべてが初めての経験だった。お母さんやおばあちゃんが、東京や名古屋に住む親族に一人一人電話を掛けて、お葬式の連絡をしていた。わたしはなんだかそれがとてもこの時代に不釣り合いな光景に見えた。

当日は、高齢の親族が多いから無理をしないように言っていたにもかかわらず、結構たくさんの人が遠くからお葬式に来てくれた。昔の家なので、おばあちゃんもお父さんも兄弟が7人ほど居るというのは聞いたことがあったけど、実はおじいちゃんにも7人居るらしくて、そのお陰でちょっとした兄弟の同窓会みたいな、にぎやかなお葬式になった。

わたしは兄弟と話すおばあちゃんやお父さんを見て、家族の知らない一面をちょっとこそばゆく感じながら、挨拶に回るお母さんの所作を真似て、全然知らないたくさんの親族と世間話をした。わたしは全然顔も名前も覚えてないのに、おばちゃんたちはわたしの名前を知っていて、こんなに小ちゃかったのに大きくなって〜!と、可愛がってくれた。

 

 

棺の中のおじいちゃんは、お化粧もして、とてもとても綺麗だった。すこし笑っていて、全然苦しそうじゃなくて、今にも喋りだしそうだった。若い時、すっごくイケメンやったんやで、と、伯母さんが笑いながら言っていて、確かに面影があるかもしれないと思った。

 

 

おじいちゃんのことを、わたしは本当に何も知らなかったと、葬儀をして初めて知った。名古屋のけっこう大きなお家の、長男だったこと。すごく顔がそっくりな弟がいること。おばあちゃんが嬉しそうに、生前おじいちゃんが言っていた冗談の数々を話しているのも聞いた。昔から冗談が好きだったものね、と兄弟のおばちゃんが笑っていて、わたしが知っているおじいちゃんは、ほんとうにほんの一部だったんだなと思った。

わたしがまだ赤ん坊の頃、親族で集まったときも、他のおばちゃんたちを差し置いて、おじいちゃんはわたしを抱っこして離さなかったらしい。そんな話も、おじいちゃんとは一度もしなかった。一緒に住んでいるのに、ろくにちゃんと話さなかった。おじいちゃんのことを嫌いだと思ったことは一度もない。けど、おじいちゃんと二人だけで時間を共有した記憶は、あまりにも少なかった。

 

 

喪主、と書いた花の札をつけたおばあちゃんや、式のほとんどを仕切っていたお母さんは、いろんな人と笑顔で話して、ばたばたとずっと忙しそうだった。しくしく泣いている顔を全然見なかった。けど、最後に棺に献花する時と、火葬する時だけ、目を赤くして静かに泣いていた。おばあちゃんもお母さんも、強いなと思った。

 

 

近い親族が亡くなるのは初めてだったから、火葬場にも初めて入った。おじいちゃんがお骨になって出てきたとき、けっこうショッキングな光景で、言葉が出なかったけど、おじいちゃんの喉仏や、大きい耳や、手術して脚に埋まっていた金属の補助器具がしっかり残っていて、ちゃんとおじいちゃんなんだと思った。

ひとつひとつ拾って、骨壷に収めているうちに、愛おしい気持ちが湧き上がった。外から見る骨壷は、得体のしれない怖いものだったけど、今こうしてちゃんと、その人の生きた跡が収まっている骨壷を見ると、しっかり胸に抱いて持って帰ることができた。

 

 

式場でさいごの念仏を聞きながら、わたしは自分の未来のことを考えていた。おじいちゃんの兄弟と、その子どもと、そのお嫁さんと、さらにその子どもが沢山集まって、おじいちゃんの死を悲しんでくれていた。おじいちゃんの血筋に直接関係ないはずの、おばあちゃんの兄弟や、わたしのお父さんの兄弟の、子どもや、その奥さんも、一緒になって悲しんでくれていた。自分が想像していた以上に、わたしの家には家系のつながりがたくさんあって、家族ひとりの死で悲しんでくれる人はこんなにも沢山いたことに、驚いた。厳かささえも感じた。それから、結婚して家庭を築くことは、こんな壮大なつながりをたくさん生むんだな、と思った。全く関係がなかった人たちが、結婚という約束を経て親族になって、友達よりも優先して死を弔う人に選ばれるほど、強い繋がりになるんだなと思った。

もちろん、わたしの家は他と比べて親族に兄弟も多いし、古いしきたりが残っている方だと思う。これからわたしの世代になれば、どんどんと家族や血の繋がりの形が変わっていくだろうことも分かる。でも、結婚という約束を交わして子どもを産むこと、家庭を築くことは、大変なことで、責任が伴うことなんだな、とぼんやりと感じた。付き合う、別れるの恋愛とは全然、重さが違うんだなあと思った。

わたしはそんなことができるほど大人になって、お母さんのように自分の親が死んだとき、式場を決めて、お金の管理をして、お寺さんを呼んで、親族に挨拶をして、一家の長女として大人の振る舞いをすることができるように、ちゃんとなるんだろうか。「その人が好きだ」という気持ちだけで、全く知らない人と親族になり、家族になり、縁をつなげていくことへ、勇気を持てるだろうか。お坊さんの調子外れの歌みたいな念仏を聞きながら、漠然と不安に思った。

 

でも、やっていかなくちゃならないんだろうな。それが大人になるっていうことなのかな。きっとこうやって、身近な人のお葬式だとか、結婚式だとか、大人の目線で経験していくうちに、ちょっとずつ分かっていくものなのだろうな。

 

おばあちゃんは、いろんな親族に、「これから寂しくなりますねぇ」と言われていたけど、私の顔を見て「でも孫の結婚式を見るまでは、しっかりがんばりますよ」と笑って言っていた。私としてはそれはもう、結構なプレッシャーだけども、おばあちゃんには毎日お世話をかけてばかりなので、ほんとうに孝行しなきゃなあと思う。おじいちゃんと同じで、もう高齢のおばあちゃんとも、あとどれくらい一緒に過ごせるかわからない。元気に歩けるうちに、旅行にいったり、ちゃんと感謝したり、美味しいご飯に連れて行ったりしたい。おばあちゃんが寂しくないように、家にいても楽しく暮らせるように、毎日たくさん関わっていたい。結婚は、わからないけど、なんとなく現実味のなかった話が一気に身近なものになった気がする。

 

なんにせよ、おばあちゃんや、わたしの親や、大切な人が、人に囲まれて、たくさんの人に必要とされて、愛されて生きてきたなあと、最後に思えるように、わたしは頑張りたいと思った。

 

 

 

 

人が死ぬのは案外あっけなくて、お葬式が終わってみれば、滅茶苦茶ずっと悲しいわけではなかった。その人を思い出して楽しく食事をすることも、お葬式の一部だと知った。

だけど、人が生まれるのはオギャーと産まれて良かったね、となるくらい簡単なのに、人が死ぬのは、とても大変だということを知った。たくさんの人が、何日もかけて一人のひとを想うことは、とてつもないパワーが必要なことだなと思う。

そんなことを経験すると、簡単に人は死ぬことなんてできなくて、しっかり生きていかなくちゃいけないんだぞと言われているようだった。

 

 

 

 

 

長くなった。こんなに書くつもりではなかった。だらだらと詳細に纏まらない文章を書いてしまうのはわたしの悪い癖だ。ここまで読んでくれた人には申し訳ないけど、ただの記録的備忘録なので、わたしの自己満足として終わらせてほしい。

 

 

居間には今までドラマでしか見たことのなかった仏壇が飾られた。ちゃんとお焼香の仕方を覚えた。おじいちゃんの写真は、十年前の妹の七五三のときのものらしいけど、すごく穏やかに笑っていて、どこにいても目が合う。でも不思議と威圧感はなくて、ほんとうにやわらかく見守られているような心地がする。

 

わたしは教育実習を忌引きで二日休んだので、その分溜まっていた指導案を書かなくてはならない。お葬式から帰宅したところの今日も徹夜確定である。こんな文章を書き出したのが悪い。でもちゃんと今の気持ちを残しておきたかった。

 

明日も普通に日々は続いていく。人がひとり死んでも、そのまま続いていくし、やらなきゃいけないことは何も待ってくれない。嫌になるけど、すべてがだめになった気がして死にたくなるときもあるけど、落ち着いて、今できることを着実にやっていくしかないんだ、と思う。人生とかいうめちゃくちゃに大きな波のなかで、どんぶら流れながらゆっくり進んでいるのに、わたし達はそのことを忘れてもがき溺れていていることがあるので、たまにはふっと船の上に立って、遠い海原の先を落ち着いて見渡すことも必要かもしれない。わたしがその先の人生でしたいことはなんだ?と、漠然としながらもちゃんと見据えて考えることも、たまには必要なのかもしれない。

 

 

 

指導案を書こう。とりあえず今、目を背けている現実を見据えたいと思います。明日の昼までに完成していることを祈って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おじいちゃん、なにもできなくて、不甲斐ない孫でごめん。おじいちゃんの孫でよかった。どうかあっちでも、お酒を飲んで、お菓子を食べて、冗談を言って、楽しく過ごしてください。それから、おばあちゃんやわたし達がしあわせに暮らせるように、どうか見守っていてください。

おじいちゃんありがとう。お疲れさま。