ここだけの話

今から歌うことここだけの話にしておいてね

青春に焦がれる

計約一ヶ月の実習が終わって、ほっとしています。元々志望の校種の実習ではないんですが、ぜんぶが新しくて新鮮ですてきな経験でした。出会った先生がみな素晴らしい人で、子どもの頃にこんな先生に出会っていたら人生がまたなにか変わっていたかもしれないと思いました。

 

実習のことはまたちゃんと文章にして残しておきたいんですけど(もちろん駄目なところは必ずぼやかして)、今日はなぜか、ゆっくりしようって決めて澪スパークリング飲んでチャットモンチーをシャッフルリピートしてお風呂に入った瞬間書きたくなったのが、自分の青春時代のことだったので、それについて思い出してつらつら書いてみたいと思います。

 

 

わたしは中高とずーっと部活で陸上競技をしていたんですが、ほんとうにその期間は自分がそれを続けていることに疑いを持ったことがなくて、当たり前に走っていて、そういう環境に居られたこと自体がとても幸せだったんだろうなと思います。

 

始まりはほんとうに些細なことでした。小学校の時から走るのは好きで、運動会では毎年隣のクラスの女の子と徒競走で競り合うのが、一年に一度の楽しみでした。その子とはプライベートで遊ぶほど仲良くはなかったのですが、中学に上がるとき、その子が「一緒に陸上部入ろうや!」と誘ってくれたのが、いちばんのきっかけでした。当時仲良かった子がこぞってバスケ部に入るらしいので、かなり迷ったのですが、なんとなく自分には団体競技が向いてなさそうだと思ったのと、女だらけの部活が大変そうだと思ったこと、あと顧問の先生が鬼のように怖いと聞いて、やめました。

 

 

結果的に陸上を選んだその選択は正解だったみたいで、特に競技的には悩むことなく、顧問の先生にも恵まれて、もちろん中学生特有の人間関係に悩んだことはありましたが、基本は楽しく部活動を満喫していました。

出会った顧問の先生は、中二の時担任にもなってくれた若い国語の女の先生で、結果的に後々出身大学、学部領域まで、わたしはその先生と同じ道を辿ることになるのですが、卒業してからも付き合いがあるほど素敵な出会いでした。部活動はボランティアで、先生の生徒を思いやる気持ちで成り立っているんだ、と気づいたのもこの先生のお陰だったと思います。

わたしの代は、わたしを部に誘ってくれたその子を含め、一緒に全国に行く子がたくさん出たほど、たまたま実力もあって、それからみんなそれぞれに頑張る目標があって、「努力している!」という気持ちにならなくても、「こいつに勝ちたい」「こいつより早くサーキット回りたい」と毎日の練習で思えていました。自分の負けず嫌いと、周りの負けず嫌いと、それから先生の乗せ方が上手だったんだと、今になって思います。なんにも考えず、がむしゃらに陸上をしていたけど、それでも自然と強くなれる環境だったなと思います。恵まれていたなあ、と今になって感じます。

 

中一のとき、みんなから嫌われていた副顧問の先生がいました。話し方が独特で、語尾に必ず「ねっ」と付く、鍋のフタみたいにのっぺりめの顔に鼻がちょんとついたような、おじさん先生でした。

その人は、わたしがまだ何も知らないままに「跳んでみたらそこそこ跳べたし楽しい」という理由で始めた走高跳を、基礎から教えてくれていました。わたしは先輩と一緒に、何もやる意味がわからないまま、踏切フォームのドリルを一日500回くらいこなしていました。きついメニューではありません、ただ踏切をイメージして、軸を意識しながら片足で地面を蹴るだけです。

 

先輩の「これのなにに意味があるの?地味」という文句を聞きながら、半年ほどやっていたら、突然記録が10センチほど伸びました。府下の大きな大会に出るチャンスと、府下で選抜の合宿に行く権利を得ました。

記録を出した記録会で、その鍋ぶた先生は「お前はもっと上へ行ける、今年度中にまだ伸びる」とポツリと言いました。いつも無表情で何を考えているか読めない先生が、なんの疑いもなくわたしを肯定して期待してくれたことが、とても嬉しかったことを覚えています。そして、高校になって改めて、鍋ぶた先生がはじめに教えてくれたフォームの基礎がどんなに意味があったか、知ることになります。どんなにスランプでも、(のちにやることになる混成競技の練習のために)高跳びに練習時間が割けなくなっても、自信を持って、何も考えずに跳ぶことができたのは、このとき鍋ぶた先生にやらされていた基礎の踏切やフォームが、しっかり定着していたからなんだろうな、と思います。

その先生は、一年で他の学校に飛ばされてしまって、もう二度と競技人生で出会うことはありませんでした。もしも次に出会ったときは、ちゃんとお礼が言いたいなと思います。

 

 

そのおかげもあってか、中学時代は、中3のとき高跳びで全中に出ました。はじめての全国区、はじめての関東遠征、ずっとふわふわした気持ちでいました。

中3年の春、一番お世話になった国語の女顧問の先生が異動になってしまい、最後に一番恩返しできる舞台を、先生に一番近くで見てもらえないことが悔しくて、異動の報告を聞いた3月末の理科室で、みんなで号泣したことを覚えています。先生も泣きながらみんなに最後の「陸上部だより」を配って、先生も悔しいこと、ずっと応援していることを言ってくれました。最後に、ロフトとかでよく売っている、一人ひとりに違う格言が書かれたステッカーをくれました。わたしのは「迷わずすすめ!」と書いてあって、先生はどうしてわたしのことをこんなによく分かっているのだろう、と思ったことを覚えています。そのステッカーは結局どこにも貼れなくて、ずっと裏の黄色いシールが張り付いたまま、大事に残っています。

全中は、あんまり記憶が残っていなくて、でもちゃんと跳べた記録は残っていて、変な感じです。本当にふわふわとしていました。ただなんとなく、アップのときに使った千葉のサブトラックが、いつもの西京極と全然違って、あつくて、不安で、何度も何度も練習で跳んで確認したような気がします。それから、高跳びのバーを超えるとき宙を浮くこの感触が、やっぱり大好きだという気持ちが、いっそう強くなったような気がします。

 

 

 

高校は、完全に部活動で選びました。強豪校で進学校の学校と迷ったけど、もとから2つ以上のことを並行してうまくやれる器用さはなかったし、ずっと高水準で競り合い続けるより、自由な校風で気ままに上を目指すほうがいいと思い、声を掛けてくれた顧問の先生がいる方を選びました。陸上をやめることは、まず選択肢からありませんでした。続けることが、当たり前のように自分の中で決まっていました。

 

全部結果論なんですが、やっぱりこの選択は間違っていませんでした。わたしは学生生活の中で、一番高校生活が楽しかったと、胸を張って言えます。ほとんど陸上しかしていなかった、朝から晩まで、春から冬まで、ずっと陸上をしていたのに、それ以外の青春を多分ほとんど知らないのに、一番充実していて、景色が綺麗でした。たとえ時間が経って風化しているからこんなに綺麗なのだとしても、一生忘れたくはないなあと思います。

 

 

高校時代のことは、書き残しておかなければいけないことが多すぎて、こんな短い時間では何も語れないような気がします。

毎日、朝練に行って、走って、間食して、授業は必要最低限で、あとは全部寝て、テスト用にノートだけとって、お弁当を食べて、寝て、夕方の部活に体力を残して、部活が始まって、走って、走って、跳んで、投げて、筋トレして、走って、夜がとっぷりと深くなるまで、毎日毎日そんなことをしていました。

 

わたしは中学のときに無茶をしすぎて、両足首をやってしまい、高校入学前の春と高1の冬?に手術をしました。それもあって、高校では脚への負担の大きい高跳び一本ではなく、七種競技という、二日間で「100メートルハードル、走高跳砲丸投げ、200メートル、走幅跳やり投げ、800メートル」をこなす種目に転向しました。今思うとどっちが負担が大きいかわからないですね。少なくとも、高跳びを失敗すると次はない、という苦しい精神状況からは、負担が減ったとは思います。

 

入学当初は手術明けで、松葉杖で入学式に出席したし、走れないし跳べないので、砂山にやり投げの棒を黙々とぶっ刺し続ける練習をするおかしな人でした。そんな掴み所のないわたしでも、すぐに受け入れてくれた高校の陸上部の仲間はほんとうにかけがえがなくて、めちゃくちゃに苦しい練習も、夏のアホほど暑い日も冬のアホほど寒い日も、全部一緒にTシャツと短スパ(短いスパッツ)で乗り越えてきた戦友です。同時に、まったくくだらない事で爆笑したり、数少ないオフを活用して色んな所に遊びに行ったり、試合の終わりにきまってくら寿司に行って馬鹿みたいに食べたり、わたしの「ふつうの青春」の思い出をを一手に担ってくれています。今でもたまに集まって、心からその喧騒に安心するのは、この人たちといるときだなあと思います。

わたしができればほんとうに、ずっと失いたくないなあと思う友人も、一緒に走っていたうちの一人です。大学に入ってもたくさん遊んでいたし、今でこそお互いの生活が忙しいことを私がいいわけにしてしまって、なかなか会えないけれど、ずっとその存在を忘れたことはないし、人の気持ちをいたわることができて、昔からわたしがくるしいとき、ほしい言葉を丁寧に包んで渡してくれる、かっこいい友人です。何も返せていない自分がいつも不甲斐ないけど、死ぬときはこの人には伝えたいと思うし、結婚式はスピーチしてほしいなと思うくらい大切なひとです。勝手に重い友情です。これは私信です。

 

高校時代は、顧問の先生に本当にお世話になりました。世界史の、おじさん先生でした。一番出会った先生の中でお世話になった先生です。ほとんど全ての生活を、陸上部の生徒に注いでくれていたのではないかなと思います。100人近い部員をほぼ一人でまとめ、毎朝毎晩私達の練習に張り付いて見て下さり、土日の遠征には、どれだけ遠くても、どれだけ出場人数が少なくても、必ず着いてきてくれました。今やっと、その恐ろしいほどの献身がわかります。

大きな大会に出るとき、怪我をしたとき、スランプのとき、不安で後ろ盾がないような気持ちのわたしを、いつも無条件で肯定してくれていた気がします。「お前は努力ができる奴だ。諦めないし、図太さもある、大丈夫だ。」といつも声を掛けてくれて、「僕にできることはこれくらいしかありませんから、」と、大会前日で緊張するわたしに少し下手なマッサージをしてくれたり。わたしはその全てから、先生の素直な「生徒を支えてやりたい」という気持ちを汲み取ったし、そのなんの他意もない、純粋な気持ちを受け取って、元気や頑張りたいと思う気持ちを貰っていました。彼がわたしの顧問の先生だったことが誇りだったし、彼に教わったのは技術だけじゃなくて、たくさんの人とつながって、助けてもらうこと、頼ること、感謝すること、逆に助けてあげること、尽くすこと、人として大事なたくさんのことでした。高校の先生になりたいと思うようになったのも、彼がきっかけでした。感謝してもしきれないくらいです。今度また、顔を見せなくちゃなと思います。

 

 

 

 

高校陸上で一番鮮烈に記憶に残っているのは、やっぱり高3の時、最後の全国インターハイの記憶です。

高2のとき、あと数点で全国の表彰台を逃して、そのリベンジを果たした日でした。 

 

競技中の記憶はなかなか鮮明に残っていて、夏の競技場の、火傷するくらいに熱くなった赤いタータンや、マイルリレーを応援する学校のコールの応援、スターティングブロックを蹴るガシャン!という音、クーラーの掛かった招集所から一歩出て、レースに出てゆくときのあの気持ち、ぜんぶ、思い出すだけで全身の毛穴が広がってその場所にいるように感じます。

 

わたしは失うものがなくなるほど本番に強い質なので、全国だとか、これ以上勝ち上がらなければならない大会がないとき、「じゃあ怖がって失敗するより、思いっきり楽しんでやって失敗したほうがいいじゃん!」と開き直ることが得意でした。ベストが出るのはいつも全国という、よく分からない性格でした。

だから、最後の全国インターハイはとにかく楽しかったです。わたしは7種目の中で、やっぱり一番高跳びが好きだったのですが、この時の楽しさは格別でした。スタンドにはいつもの何倍もの観客がいて、でも競技に集中する選手のためにとても静かで、誰もわたしのような平凡な選手に注目していないからとても気楽で、その大きな会場で自分のルーティンをして、自分の世界に入って、何も考えず、高く上がることだけを考えて、バーを越えて、バーに1ミリも触れずに、脚をすり抜いて、赤いマットにぼふりと落ちる、そこになんの介在もなく、自分との戦いであるところが、最高にこの競技の好きなところで、最高に気持ちが良いところでした。背面跳びなので、跳んだあとマットに仰向けに倒れて、ポールに残ったバー越しに見えた真っ青な空は異常なほど清々しくて、ずっとここで、この緊張感の中で跳んでいたいと思っていました。

 

好きなのは高跳びで、得意なのは最終種目の800メートルだったのですが、これだけはいつもいつもメンタルがやられていました。戦法として、得意な800メートルで最後に順位を逆転し、入賞に食い込む形だったのですが、6種目終わって体力がゴリゴリに削られた後の800メートルという長さは、本当に心が折れます。他の選手もそれは同じで、地方の大会では「もうみんなで手を繋いでせーの!でゴールしよう」などと言いながら招集所で待機していた記憶があります。わたしはいつもこの競技の前に走るのが嫌すぎてテントで号泣していました。特にわたしの場合、ここで本気を出し尽くせなければ順位が見えてこないので、何が何でも必死になる必要がありました。組の中で必ず一番で帰ってくる必要がありました。メチャクチャなプレッシャーで、一旦「絶対に無理や〜嫌や〜しんどい!帰りたい!」と泣きました。こういうときや、他の種目で大コケしたりしてへこんだとき、必ず母がお尻を叩いてくれました。大丈夫やからしっかりし、できる、ここで頑張れば入賞できる、といつも奮い立たせてくれました。

 

わたしの陸上競技生活のなかでもう一人、感謝してもしきれないのは母親です。母の物理的、精神的なサポートがなければ絶対に無理だったなと思います。必ずお弁当を作り、わたしが競技に集中できるように生活を請け負ってくれ、混成競技に必要な膨大な量のスパイクやユニなど、必要なものは必ず揃えてくれました。甘えすぎていたくらいでした。でもそれがあったから、わたしは何も考えずにここまでがむしゃらに競技に打ち込めていました。大事な試合には必ず来て、わたしの精神を安定させてくれました。顧問の先生や友人とはまた違った、わたしの奮い立たせ方を知っている唯一の人でした。高2で負けた全国IHの日から、この人に恩返しできるのは結果を出すことしかない、と思い、それを必死にやってきました。

 

七種競技は一日に3〜4種目×二日間やるので、競技が始まるのは朝一で、最終種目はいつも夜でした。全国のこの日も例に漏れず、最後の800メートルは夜六時頃だったと思うのですが、大きな大会はナイターの光がついた中で走ることができます。わたしはその全国大会の特別感が、とてもわくわくして好きでした。最終種目なので、ひとりずつカメラで抜かれながら選手紹介があります。薄暗くて、白い光でスタンドとバックストレートから照らされたタータンを、静寂の中で走り出す感覚は今も覚えています。ただただ必死でした。あんなに嫌だったのに、招集所から出てスタート位置に付き、走り出せばもうあとは何も考えずに、全力を出し切るだけでした。タイムを点数にして計算し、合計得点を競う七種競技では、0.1秒でも早くゴールすることが勝負のゆくえを左右します。走っているとき、たくさんの応援の声が、罵声のような大きさで鳴り響いているはずなのですが、必死のわたしにはほとんど聞こえたことはありませんでした。でも、確かにスタンドのあの場所で応援してくれている人がいるはず、という事実は、確実に私を勇気づけました。

 

 

 

何回も何回も話が逸れて、とても長くなってしまいましたが、わたしが一番この文章で書きたかったのは、全国の最後に表彰台から見た景色のことです。

すべての競技が終わり、完全な夜になり、真っ暗の空をナイターの白い光が照らしていて、スタンドにはたくさんの人がいる中、白い台の7番目の位置で、わたしは賞状を受け取りました。7番目なんて、もっともっと本気で陸上に人生を賭けてきた人からしたら、大したことがないとしても、悔しさの残る順位だと言われたとしても、わたしには本当に意味があることでした。これでやっと、6年間がむしゃらに、色んな人に支えてもらいながらなんとかやってきた陸上を大団円にすることができたな、と思いました。飛び抜けた才能も、飛び抜けた忍耐力もないわたしがここまで頑張れたのは、わたしを「お前は頑張れる」と信じてくれた人のおかげでした。母や顧問の先生をはじめ、いろんな形でお世話になった人に、これでやっとちゃんと胸を張って恩返しできたなと思いました。それから、やっと自分の努力を認めて、よく頑張ったね、これで悔いがないね、と、思い残すことなく、自分のアイデンティティの一部だった「陸上」から引退することができました。

賞状を受け取ったあと、くるりとスタンドと逆側を向いて、優勝校の校歌を聞きながら、バックストレート後方に上がってゆく優勝者の校旗を見つめる時間があります。青春、という言葉を聞いて一番くっきりと思い出すのは、その白い台の上から見た競技場の景色です。

きらきら強く光って輪郭をなくした白いライトと、夜の中でつやつやに照らされた赤いタータン、芝生、夜の少し冷たい風、走る人がいなくなった競技場はとても広く見えて、そこで確かに、ここから見た景色は、絶対にこの先一生、忘れられないだろうな、と思いました。今もたまに思い出して、がむしゃらになっていたあの頃、なにかにすべてを賭けて熱中していたときのことを、懐かしく思います。

 

母には、全国大会の終わりに、泊まっていたホテルで「あなたのお陰で頑張れて、あなたの為に頑張ったよ、恩返しができてよかった」と、ちゃんと伝えられました。母はやさしく頷いてくれました。自己満足かもしれませんが、いろいろな感情がすっきりした瞬間でした。

 

 

 

わたしにとって陸上競技は、自分を説明するときに絶対に抜かせないくらい大事な、人生の半分くらいを占める要素で、そこでした経験はたぶん、わたしにしか出来なかったことやわたしにしか分からないこともたくさんあると思います。大学になって続けなかったことで、陸上競技の世界でしか生きてこなかったわたしの世界は確実に広がったけど、どうすれば「わたしはこういう人です」と説明ができるのか、いつも悩んでしまいます。陸上と関係ない世界でのつながりがたくさんできたことは嬉しいし、それはそれで望んでいたことだけど、その人たちと一緒にいるとき、わたしの中でわたしのしてきたことは、優先順位が下がって、勉強や、バイト、恋愛とか、別の青春を送ってこなかった自分が、あんまり価値がないように思えてしまう。うまく言えないけど、自分のまんなかにあって、胸を張って幸せな青春だったと思えていたものがくすんでしまった気がしてしまった。だからちゃんと書き記して、わたしはこういうことをしていたんだ、って思い出せるようにしておきたい。こういうことを思っていたんだと思い出せるようにしておきたい。

そのうえで、わたしの青春は、陸上から切り離された今の生活や今の自分に、いったいどんな糧になるのか、考えられるようにしたいなと思います。それはそれ、これはこれではなくて、わたしがしてきたことと、これからしたいことが、ちゃんと地続きになるように、考えていたい。青春に焦がれて、「あの頃はよかった」と思うのではなく、ちゃんと役に立ってるんだよ、って、自分に自信を持って言えるように、これからも生きていきたいな、と思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

敬体が崩れてしまったけど、まだまだ書かなければならないことは書き終わらないけど、陸上の話はこれで終わります。古い記憶もあるので、ところどころ間違って覚えているところもあるかもしれません。でもそれはご愛嬌ということで。赤裸々すぎてたぶん、あとで恥ずかしくなりますね。ここまで読んでくれてありがとうございました。

 

ずっと四時間近くお風呂の中で書いていたので、指がしわくちゃです。途中からシャッフル再生をやめて、チャットモンチーの「春夏秋」を一曲リピートしながら書きました。澪の酔いも覚めたので、そろそろ眠ろうと思います。