ここだけの話

今から歌うことここだけの話にしておいてね

夢見る頃を過ぎても

最近は、なんでか3時になっても、4時になっても、眠気が来なくて、眠れないことが多い。でもきまって、疲れてないわけじゃないから、次の日にもうどうしょうもないくらい眠くなってしまう。私は図太いから今まで眠れないなんてほとんどなくて、唯一寝られなかったのは高3のときの近畿大会の前日くらいだったのに、どうしちゃったのか。 そんな繊細なはずないだろ。もっと馬鹿で単純だろ。

 

私は高校の先生になりたいけど、高校の先生の職員室には、なんとなく私の憧れが詰まっている。高3の終わり、部活を引退して、自習室にこもって勉強して、とっぷり日が暮れた頃に職員室に行くと、大体疲れた顔した、もうほとんどプライベートな顔に戻っている先生たちがいた。先生だけど、先生じゃないような、先生たちの、先生じゃないようなところが見える会話や、先生同士の他愛もない雑談を聞いているのが好きだった。頑張って遅くまで勉強して、息抜きに先生の仕事の邪魔しにいくのが好きだった。そしたらお疲れ様〜遅くまで頑張ってんな〜とか声かけてくれて、たまに雑談からこっちに話を振って、「お前は○○やからな〜」なんて私のこと知ってか知らないでか、適当に相手してくれるような、あのちょっと大人の会話に混ざって、大人びた気分になれる、ゆるい空気が好きだった。出身の高校が、先生同士も仲良くて、生徒ものびのびした校風だったから、余計によかったのかもしれない。

 

私は国語の先生になりたいけど、なんで国語?って言われたらちょっとよくわからなくて、そういえば昔は世界史の先生になりたかった気もする。今は近現代文学が好きだと自己紹介するけど、何が教えたい?どう教えたい?って言われたらよくわからないし、近現代文学の何が好きなのかも最近よくわからない。課題で出る考察も、論文をかき集めて読んで、ちょっと違うなって思ったところを自分なりにこじつけて考察するだけになってきてしまって、高校生の時や大学一回生のときはそれがとても楽しかったのに、最近はつまらなく感じてきてしまった。でも国語という教科に対しては、すごく面白いと思うし、興味は湧くし、無限に高校国語教育に関するコラムや論文は読める。ツイッターのアカウントで、現役の高校国語教員の人のツイッターをたくさんフォローしていると、面白い本やすごい本や、ためになる本や、勉強になる話をたくさん拾うことができて、とても楽しい。

 

そんなツイッターの人たちの普段のようすや授業のツイートを見ながら、私がもし教えるならどうするだろう?って考える。話すのが下手だから、そして人の前に立つのが、ここ十年くらいでいつの間にか怖くなったから、教壇に立つ時はとびきり素敵なキャラクターを作って、演じられるようにならなきゃと思う。私は私のままで勝負することが今とてつもなく怖いので、わたしの理想の先生を想像して、そんな人みたいに外見も発言も行動も変えられるよう、教壇に立つ間だけとびきり演技の上手い人になりたい。いろんな本にも、教員は演者であれ、と、書いてあったりするので、間違ってはいない。はず。

 

 

QUEENのabother one bites the dustと、killer queenと、Radio Ga Gaと、Bohemian Rhapsodyをずっと聴いてる。頭から離れない。映画を2回観た。英語の歌詞の意味は全然わからない。わからないけど、フレディがピアノを弾きながら全力で歌っているのを見ると、なんでかめちゃめちゃ泣けてくる。本当のパフォーマンスって何だって思う。こんなに人を惹きつけるパフォーマンスができたらなあと思う。フレディマーキュリーの声が、音源だとイメージより全然ドスきいてなくて、めちゃくちゃ繊細で、落ち着く声をしていて、泣けてくる。

 

 

私には高校生に真正面からぶつかったり叱ったりできるほど、自信のある道徳観や価値観なんて持ってない。だから怖い。生徒指導や教育相談の勉強をしていると、その場やケースにふさわしい、完璧な判断が求められる。間違えてしまうと、手遅れになったり、一人の人の人生を狂わせてしまう。先生として完璧でいないといけないこと、先生としての化けの皮が剥がれたとき、失望しか生まれないのではないかと思うこと。生徒が悩んているとき、間違った対応をしてしまって、生徒を傷つけたり、遠回りな方向に導いてしまうんじゃないかと思うこと。

 

人間関係、真正面からぶつかったり本気で悩んで、自分でこっちのほうがいいんじゃないかって決めたとき、いい方向に向かったことなんて、人生で無いかもしれない。不器用だし、ずるくて器のせまい人間だから。人に判断を委ねたり、人に媚びることで20年間生き抜いてきたし、小学生の頃、人と仲良くしたい気持ちを一番叶えてくれたのが、試行錯誤の結果、媚びることだったから、にこにこ相槌をして、相手をほめることだったから、私はもうそれ以外の仲良くなり方を知らない。勿論気を許せる人には無理に媚びているような自覚はないし、媚びなくても仲良くしてくれると思える人と居るのが一番楽で幸せ。だけどどうしても仲良くしなくちゃいけない、したほうがいいけど、真正面から向かうのが怖い人には、媚びることしかできない。「私は私だから、ありのままの私を知って好きになってくれ」なんて、自信がなくて到底言えない。絶対言えない。言える人は、どうしてそんなことが言えるのか、どうしてそんなに自分に自信があるのか、教えてほしい。そもそも、「私は私」なんて言えるような、「私らしい」決断をした記憶さえもない。いつも人に委ね、任せてきたから。

 

私が大好きで愛してやまない「ラ・カージュ・オ・フォール」というミュージカルで、市村正親さんが演じるザザの曲に「ありのままの私」という曲があるけど、私はこの歌が大好きで、大好きで、聴くたびにどんな気持ちでいても頑張ろうと思える。本当はそんなに強くないのに、強い強い言葉で、歌声で、ザザが、ありのままの私の姿を見て、と歌うのに、どれだけ勇気づけられてきたかわからない。舞台音声の録音CDで、この曲を聞くだけで、市村正親さんの圧倒的な歌声が思い出されて、何度聴いても泣いてしまう。「けなされても 拍手を浴びても 関係ない 誰のものでもない」という歌詞がぐさりと刺さってしまうのは、わたしがありのままの私でいることを怖いと思っているから。

 

スーパーハイパー深夜の鬱モードに加えて、最近はつらいなしんどいなと思うことが少し重なって、自分の能力の無さや人間としてのゴミさが嫌になってきたこともあり、さらに女の子週間でもあるので、今日はちょっと涙が止まらない。明日こんな時間まで起きてたこと、絶対後悔するんだろうな。最近は本当にツイッターが息苦しくて、何をつぶやいても駄目な気がして、全部消そうか迷っている。でも私はこうやって馬鹿みたいに活字で吐き出さないと落ち着かない人間で、話すのが苦手な分文章にして吐き出さないと抑圧で死んでしまうので、この訳のわからない文章をブログに残してしまうことを許してね。私は元気です。何一つ、今日はポジティブになれないだけです。風邪が早く治りますように。