ここだけの話

今から歌うことここだけの話にしておいてね

今から宣戦布告

文章を書きたくなるときってどんなときなんだろうな。というか、文章だけじゃなくて、曲を作りたくなるときとか、絵を描きたくなるときとか、歌いたくなるときとか、楽器を弾きたくなるときとか、そういう自分の中から何かを生み出すときの根源的な欲求ってどこからくるんだろうな。誰かが、自分の中になにかドロドロした悩みや不安やら、吐き出したいものが溜まっているからそういうものができるんだ、なんにも悩みがなくて平和で幸せな人の作り出すものなんてつまんないんだって言ってた気がするけど、わたしはそうはあんまり思えない。というか一概にはそう思いたくない。そもそも他人の幸せの基準なんか本人以外誰にもわからんし。めちゃくちゃ幸せそうでも奥底でめちゃくちゃなんかを抱えてるのかもしれないし。どろどろしたそれが他人に表立って見えてないと、作り出す活動はしてはいけないのか?する資格がないのか?って思ってしまう。もちろん見えてる方がバックグラウンドが分かるから響きやすいとか、そういう受け取る側が作り出す側の人をどんな人だって見てるのかによって、変わるものはあるんだろうけど。じゃあなんだろう、承認欲求?自分の感じたことを誰かに知ってほしい?それもあるけど、それが満たされたらある程度解決するものがあるのは事実だろうけど、それだけでもない気がする。わかんない。なんの為に何かを生み出すんだろ。

 

教育学の中にも、哲学部門と実証部門と実践部門の3つがあって、それは本当に良いって言えるのか?教育はなんの為にするのか?っていう哲学と、教育を科学的に理論化する実証と、2つを基に効果的な実践方法を考える実践があるらしい。きっとこれって何においても一緒だよなあと思う。音楽を作ることだって、なんの為に?どういうものが良いと思うのか?を考えるのと、いい音楽にするための音楽理論と、それをメロディや歌い方や弾き方に落とし込む実践があって、世の中にそのうち一つでも欠けてたら、バランスが取れないんだろうなあ。私は教育のことにおいては「なんのために?」「それをして何が身につく?」っていう教育哲学(って言えるんかな?)を突出してめちゃくちゃ考えてしまうから、全然研究が進まない。というか、新米教師としては多分小手先の授業構成や上手い喋り方とか、そういう実践的な技術を磨くのが先なんだろうけど、どうしても「その実践ってほんとに意味あんのかな?」みたいなことが気になってしまう。国語とかいう、一番目標や意義が曖昧な教科だから尚更。それが面白いところでもあるんだけど。

 

話が逸れた、教育においてはそういう根源的な意味みたいなものを考えがちだけど、じゃあわたしが今書いてる文章とか、コピーバンドをやる理由とか、さらに作った何かをネットに載せる理由って何なんだろうなあと思う。もちろん何も考えないでやることの方が多いし、それ自体が楽しいからやるのであって、理由と言ったら大袈裟だけど、書きたいなあ歌いたいなあと思う衝動はどっから来てんのかな。

 

今自分が書いた文章読み返してて思ったけど、もう最初の方に答え書いてあるな。どろどろした感情が他人から見えるにしろ見えないにしろ、他人に承認されようがされまいが、自分の中に生まれてるなんかの感情を形にして放出したいってだけなんかな。自分の中にあるもやもやした何かを形にすることで、自分で自覚して整理したいんだろうな。もやもやだけじゃなくて、わたしが綺麗だと思ったこととか、素敵だと思ったことも、自分でもっと綺麗に整理したり、そのままの綺麗さをできるだけ失わないようにしたりして、自分に何度でも見返せる形でもう一回突きつけたいんだろうな。わたしはきっとそうなんだろうな。それが満足になるんだろうな。完全に独りよがりだな。もちろんバンドだったら、その時点で誰か他の人と一緒に協働してつくるときの歓びが加わるけど。

その営みによって得るものにプラスして、他人に見られる可能性があること前提で作り出したものであれば、吐き出したものにもし誰かがいいねって言ってくれたり、良くないねって言ってくれたり、全く無反応だったり、作り出す前と何らかの変化があることで、また上乗せして自分の中に感情が生まれるから、次の何かを生み出す原動力になるんだろうな。特に、いいねって言ってもらえたら、わたしが考えていた根源的な「なんのために?」を肯定されたような気がして、もっとその方向でやっていこうって思えるから、嬉しいんだろうな。「なんのために?」っていうのは、自分の人格とか生きてきた中での考え方が一番密接に関わってる部分だと思うから。逆に良くないねって言われたとき、もう一回根源的なところから考え直すから、すごく成長するんだろうな。前にコピーバンドを見てくれた先輩に、「お前の歌は上手いだけでなんにも伝わってこん。」って言われたとき、当初はめちゃくちゃ悔しくて腹立ったけど、それから全然コピーバンドするときの気持ちが変わったもんな。考え直した結果変わるにしろ変わらないにしろ、方向性が強固になるか、別のベクトルを試してみるか、いいことしかないからな。

 

このブログとか特にそうだけど、ほとんどの記事をシェアせずに、めちゃくちゃ長い文章書くときとか、ツイッターのフォローフォロワー0の鍵垢で思ったことをポンポンツイートするときとか、自分の中で考えたことをただただ整理してるんだろうな。日記でやれよって思う人もいるだろうけど。基本手書きが苦手だから日記は続かない。

それに加えて、もしこのブログみたいにたまたま入った誰かが見てくれて、なんかの反応してくれたり、反応がなくても読まれた形跡だけは残っててるから、誰かがこれを読んでなんかを考えてくれたりしてるかもしれないって思ったら、相乗効果で生まれるものが増えるから嬉しい。それが正の連鎖かどうかは分からんけど。

 

なんでこんなこと考えだしたんかというと、弾き語りのライブに出させてもらうことになって、コピーだけじゃなくて折角だからオリジナルの曲を作ろうと思ったとき、わたしが作りたい曲ってどんなんだ?って思って、そもそもなんの為に曲を作るんだ?コピーでいくらでもいい曲があるのに?と思ったところで停滞したから。わたしは漸くわかったぞ。まず自分が吐き出したいから、満足するために作る。それを誰がどう思ってくれるのかは、見てもらわない限り分からん。終わり!まあ思った通りの自分が満足する曲を作る技量も経験も足りてないので、相変わらず曲作り難航するけど。たのしみだな。ライブ。