ここだけの話

今から歌うことここだけの話にしておいてね

おじいちゃんについて

前々からなにか文章にして残すことをしてみたいと思っていたのだけれど、きっかけがなかったのでツイッターという媒体でしかそういうことをする機会がなかった。

でも今日ずっと一緒に住んでいた母方の祖父の葬儀が終わって、その後何気なく見ていたいつもネトストしてるツイッターアカウントのはてブロにたまたま、同じようにおじいちゃんが死んだことを記事にしているのを見つけて、なんかの縁かもしれない、とぼんやり思ったので、平成最後の8月も終わるし、一区切りだし、私も少しずついろんなことを始めてみようかなと思う。まあ、すぐに飽きて存在を忘れるのかもしれないんですけど。

 

 

 

わたしは小学二年生のときに今の家に越してきて、それからずっと父母妹と、母方のおじいちゃんとおばあちゃんと一緒に暮らしてきた。

二世帯住宅のせいで、中学に上がってから友達を家に呼んだりすることはほとんどしたことがないし、ゆっくり人と電話できるような自分の部屋もないけど(ちゃんとした仕切りがなく会話が筒抜けだし、夜中に電話すると煩いと怒られる)、家に帰ったら絶対に誰かがいて、世話焼きのおばあちゃんかお母さんが必ずご飯を用意してくれていて、家族に関して寂しいと感じることは今までいちどもなかった。高校や大学に上がって、いろんな家庭環境の友達と出会って、すっごくこれって恵まれてることなんだろうな、と思うようになった。

 

おじいちゃんは元気なとき、わがままで口うるさくて、テレビを見てたら絶対に出ている芸能人の悪口ばかり言うので、「うるさい!ちょっとはだまっとり!」と叱るおばあちゃんとよく喧嘩していた。お酒とたばこも大好きだった。でも知識人で、テレビのクイズ番組で出題される雑学や政治関連の問題にさらっと答えたりしていて、賢いんだなあって思っていた。わたしはあまり自分からおじいちゃんに関わりに行くことはなかった。でもたまに用があって二階のおじいちゃんの部屋に入ったら、たばこの匂いと一緒に、おじいちゃんは孫のわたしをやさしく迎えてくれた。

 

おじいちゃんは去年の暮れくらいに怪我をしてあまり歩けなくなってから、認知症が進んできて、ここ数ヶ月は特に大変だった。おじいちゃんの部屋を二階の大きい方の部屋と交代して、ベッドを置き、自宅介護のように生活するようになった。

おばあちゃんは毎日病院やケアセンターを往復しながら、おじいちゃんのわがままに文句を言いながら、でも当然のようにおじいちゃんの世話をしていた。二階でおじいちゃんが風呂に入りたくないと怒鳴る声と、おばあちゃんのきいきい声が家の中に響き渡ることも毎日のようにあった。そのたびにお母さんはため息をついて二階に上がっていった。わたしはいやだなあ、と思いながら、イヤホンをして何も聞こえないようにしていた。

 

今から一ヶ月ほど前のある日、授業が全休だったので、平日の昼間におばあちゃんとわたしとおじいちゃんの3人しか家にいない日があった。一階の自分の部屋で作業していたら、おばあちゃんがニ階から助けて!と叫ぶのが聞こえた。何事かと思って向かったら、介護用のベッドからおじいちゃんの上半身が転げ落ちていた。「おばあちゃんではあげられへんから、あんた、ベッドに上げたげて。あんたできる?」と、少し動転しながら半分泣きそうな声で言うおばあちゃんに、大丈夫やから、と冷静に声をかけて、呆然とした顔をしているおじいちゃんを抱き上げてベッドに戻した。おじいちゃんがほとんど二階のみで生活するようになってから、顔を見るのも久しぶりだったから、あんまりに華奢で、細くて白くて、呆けたおじいちゃんをちゃんと見たのも初めてで、わたしは直視できなかった。抱き上げたときもあんまりに軽くて、おじいちゃんの目線はわたしに合わないまま「おおこわい、こわい、落ちる、」を連呼するだけで、本当にこの人があのおじいちゃんと同じ人なのかと思った。抱き上げて戻したあと、そそくさと一階に戻って、何もなかったように過ごした。どんどん弱っていっているおじいちゃんを受け入れるのが怖かった。その2週間くらい後、おじいちゃんは近所の大きな病院に入院することになった。

 

 

おじいちゃんもう長くないかもしれん。とお母さんから聞いて、数日後に、本屋でバイトをしていたら、「もう今日明日であかんかもしれんらしい、今すぐ病院にきて」と電話がかかってきた。夜の9時頃だったから、一旦家に戻ってタクシーで急いで病院に向かった。その間、わたしはおじいちゃんになんて声をかけよう、最後に伝えるべきことって何なんだろう、ありがとうと言うべきなのかな、とか考えながら、どぎまぎ過ごした。病室に着くと、管にたくさん繋がれたおじいちゃんが、肩で息をしながら寝ていた。お母さんの妹も車で一時間半かけて飛んで来て、家族大集合になった。おばあちゃんがみんな来たよ、と声をかけたら、おじいちゃんはパッと目を開けて、ちゃんとわたし達一人一人を見た。なんて声かけたらいいかわからなくて、遠くから見ていたら、お母さんやおばあちゃんやお父さんが、「〇〇(名前)やで。ちゃんとここにいるで。あともうちょっと頑張り。」と手を握ったりほっぺたに触ったりしながら笑顔で声をかけていて、こういう時どうしたらいいか、大人はちゃんと分かっているんだなあ、とぼんやり思った。それから、ありがとう、なんていう言葉は、この場には全然適切じゃないなと思った。わたしと妹も促されて、わたしはおじいちゃんに「〇〇やで。おじいちゃん、わかる?ここにいるよ」と声を掛けた。おじいちゃんは、その時意識がしっかりしていて、みんなにああ、〇〇か、とちゃんと返事をしていたけど、わたし達を見て、「当たり前や、わかるわ、大事な大事な…」と言った。それから目の端から涙を流して、わたしたちの方に手を差し伸べようとした。大事な大事な、孫やねんから、と続くことがわたしにも妹にも分かって、妹もわたしも無言で泣いていた。おじいちゃんの手には、管を引き抜かないようにカバーようなものがはめられていて、自由に動かなかったけど、わたしたちはその上からしっかり手を握った。おじいちゃんはその後、眠ったり起きたりを繰り返した。

2時間ほどそうやって家族で過ごしていて、お母さんは「子どもらとお父さんは、明日朝も早いからもう帰りなさい。」と言った。妹は泣いて首を振ったけど、「明日も会えるから、な」と言われ、渋々頷いた。明日も会えるかどうかは、全然確実じゃないことはみんな分かっていた。おばあちゃんが「〇〇(私の名前)らもう帰らはるしなあ、」と声をかけると、おじいちゃんはまたパッと目を覚まして、「そうか、お母さんの言うとおりにしい、」と言った。それから起き上がって見送ろうとした。久しぶりにこんなによく喋って元気なおじいちゃんを見たというほど、おじいちゃんはしっかりしていた。ほなまた来るからね、と声を掛けて、もう最後になるかもしれないおじいちゃんの顔をしっかり見て、うちへ帰った。

 

その日の夜中3時、おばあちゃんやお母さん、伯母さんに見守られて、眠りながらおじいちゃんは亡くなった。私はそれを、朝ゆっくり眠って起きてからお母さんに聞いた。数時間前まであんなに元気やったのに、それからこっくり眠らはって、苦しまずにすっと死なはったわ。入院する直前までお酒も飲んで、お菓子食べて、好きなようにしてはったし、いっぱいの家族に見守られて死なはったから、きっと幸せやったやろな、と、おばあちゃんは笑っていた。

 

 

お葬式は親族だけで行った。わたしは喪主側でお葬式に参列したことがなかったから、いろんなことすべてが初めての経験だった。お母さんやおばあちゃんが、東京や名古屋に住む親族に一人一人電話を掛けて、お葬式の連絡をしていた。わたしはなんだかそれがとてもこの時代に不釣り合いな光景に見えた。

当日は、高齢の親族が多いから無理をしないように言っていたにもかかわらず、結構たくさんの人が遠くからお葬式に来てくれた。昔の家なので、おばあちゃんもお父さんも兄弟が7人ほど居るというのは聞いたことがあったけど、実はおじいちゃんにも7人居るらしくて、そのお陰でちょっとした兄弟の同窓会みたいな、にぎやかなお葬式になった。

わたしは兄弟と話すおばあちゃんやお父さんを見て、家族の知らない一面をちょっとこそばゆく感じながら、挨拶に回るお母さんの所作を真似て、全然知らないたくさんの親族と世間話をした。わたしは全然顔も名前も覚えてないのに、おばちゃんたちはわたしの名前を知っていて、こんなに小ちゃかったのに大きくなって〜!と、可愛がってくれた。

 

 

棺の中のおじいちゃんは、お化粧もして、とてもとても綺麗だった。すこし笑っていて、全然苦しそうじゃなくて、今にも喋りだしそうだった。若い時、すっごくイケメンやったんやで、と、伯母さんが笑いながら言っていて、確かに面影があるかもしれないと思った。

 

 

おじいちゃんのことを、わたしは本当に何も知らなかったと、葬儀をして初めて知った。名古屋のけっこう大きなお家の、長男だったこと。すごく顔がそっくりな弟がいること。おばあちゃんが嬉しそうに、生前おじいちゃんが言っていた冗談の数々を話しているのも聞いた。昔から冗談が好きだったものね、と兄弟のおばちゃんが笑っていて、わたしが知っているおじいちゃんは、ほんとうにほんの一部だったんだなと思った。

わたしがまだ赤ん坊の頃、親族で集まったときも、他のおばちゃんたちを差し置いて、おじいちゃんはわたしを抱っこして離さなかったらしい。そんな話も、おじいちゃんとは一度もしなかった。一緒に住んでいるのに、ろくにちゃんと話さなかった。おじいちゃんのことを嫌いだと思ったことは一度もない。けど、おじいちゃんと二人だけで時間を共有した記憶は、あまりにも少なかった。

 

 

喪主、と書いた花の札をつけたおばあちゃんや、式のほとんどを仕切っていたお母さんは、いろんな人と笑顔で話して、ばたばたとずっと忙しそうだった。しくしく泣いている顔を全然見なかった。けど、最後に棺に献花する時と、火葬する時だけ、目を赤くして静かに泣いていた。おばあちゃんもお母さんも、強いなと思った。

 

 

近い親族が亡くなるのは初めてだったから、火葬場にも初めて入った。おじいちゃんがお骨になって出てきたとき、けっこうショッキングな光景で、言葉が出なかったけど、おじいちゃんの喉仏や、大きい耳や、手術して脚に埋まっていた金属の補助器具がしっかり残っていて、ちゃんとおじいちゃんなんだと思った。

ひとつひとつ拾って、骨壷に収めているうちに、愛おしい気持ちが湧き上がった。外から見る骨壷は、得体のしれない怖いものだったけど、今こうしてちゃんと、その人の生きた跡が収まっている骨壷を見ると、しっかり胸に抱いて持って帰ることができた。

 

 

式場でさいごの念仏を聞きながら、わたしは自分の未来のことを考えていた。おじいちゃんの兄弟と、その子どもと、そのお嫁さんと、さらにその子どもが沢山集まって、おじいちゃんの死を悲しんでくれていた。おじいちゃんの血筋に直接関係ないはずの、おばあちゃんの兄弟や、わたしのお父さんの兄弟の、子どもや、その奥さんも、一緒になって悲しんでくれていた。自分が想像していた以上に、わたしの家には家系のつながりがたくさんあって、家族ひとりの死で悲しんでくれる人はこんなにも沢山いたことに、驚いた。厳かささえも感じた。それから、結婚して家庭を築くことは、こんな壮大なつながりをたくさん生むんだな、と思った。全く関係がなかった人たちが、結婚という約束を経て親族になって、友達よりも優先して死を弔う人に選ばれるほど、強い繋がりになるんだなと思った。

もちろん、わたしの家は他と比べて親族に兄弟も多いし、古いしきたりが残っている方だと思う。これからわたしの世代になれば、どんどんと家族や血の繋がりの形が変わっていくだろうことも分かる。でも、結婚という約束を交わして子どもを産むこと、家庭を築くことは、大変なことで、責任が伴うことなんだな、とぼんやりと感じた。付き合う、別れるの恋愛とは全然、重さが違うんだなあと思った。

わたしはそんなことができるほど大人になって、お母さんのように自分の親が死んだとき、式場を決めて、お金の管理をして、お寺さんを呼んで、親族に挨拶をして、一家の長女として大人の振る舞いをすることができるように、ちゃんとなるんだろうか。「その人が好きだ」という気持ちだけで、全く知らない人と親族になり、家族になり、縁をつなげていくことへ、勇気を持てるだろうか。お坊さんの調子外れの歌みたいな念仏を聞きながら、漠然と不安に思った。

 

でも、やっていかなくちゃならないんだろうな。それが大人になるっていうことなのかな。きっとこうやって、身近な人のお葬式だとか、結婚式だとか、大人の目線で経験していくうちに、ちょっとずつ分かっていくものなのだろうな。

 

おばあちゃんは、いろんな親族に、「これから寂しくなりますねぇ」と言われていたけど、私の顔を見て「でも孫の結婚式を見るまでは、しっかりがんばりますよ」と笑って言っていた。私としてはそれはもう、結構なプレッシャーだけども、おばあちゃんには毎日お世話をかけてばかりなので、ほんとうに孝行しなきゃなあと思う。おじいちゃんと同じで、もう高齢のおばあちゃんとも、あとどれくらい一緒に過ごせるかわからない。元気に歩けるうちに、旅行にいったり、ちゃんと感謝したり、美味しいご飯に連れて行ったりしたい。おばあちゃんが寂しくないように、家にいても楽しく暮らせるように、毎日たくさん関わっていたい。結婚は、わからないけど、なんとなく現実味のなかった話が一気に身近なものになった気がする。

 

なんにせよ、おばあちゃんや、わたしの親や、大切な人が、人に囲まれて、たくさんの人に必要とされて、愛されて生きてきたなあと、最後に思えるように、わたしは頑張りたいと思った。

 

 

 

 

人が死ぬのは案外あっけなくて、お葬式が終わってみれば、滅茶苦茶ずっと悲しいわけではなかった。その人を思い出して楽しく食事をすることも、お葬式の一部だと知った。

だけど、人が生まれるのはオギャーと産まれて良かったね、となるくらい簡単なのに、人が死ぬのは、とても大変だということを知った。たくさんの人が、何日もかけて一人のひとを想うことは、とてつもないパワーが必要なことだなと思う。

そんなことを経験すると、簡単に人は死ぬことなんてできなくて、しっかり生きていかなくちゃいけないんだぞと言われているようだった。

 

 

 

 

 

長くなった。こんなに書くつもりではなかった。だらだらと詳細に纏まらない文章を書いてしまうのはわたしの悪い癖だ。ここまで読んでくれた人には申し訳ないけど、ただの記録的備忘録なので、わたしの自己満足として終わらせてほしい。

 

 

居間には今までドラマでしか見たことのなかった仏壇が飾られた。ちゃんとお焼香の仕方を覚えた。おじいちゃんの写真は、十年前の妹の七五三のときのものらしいけど、すごく穏やかに笑っていて、どこにいても目が合う。でも不思議と威圧感はなくて、ほんとうにやわらかく見守られているような心地がする。

 

わたしは教育実習を忌引きで二日休んだので、その分溜まっていた指導案を書かなくてはならない。お葬式から帰宅したところの今日も徹夜確定である。こんな文章を書き出したのが悪い。でもちゃんと今の気持ちを残しておきたかった。

 

明日も普通に日々は続いていく。人がひとり死んでも、そのまま続いていくし、やらなきゃいけないことは何も待ってくれない。嫌になるけど、すべてがだめになった気がして死にたくなるときもあるけど、落ち着いて、今できることを着実にやっていくしかないんだ、と思う。人生とかいうめちゃくちゃに大きな波のなかで、どんぶら流れながらゆっくり進んでいるのに、わたし達はそのことを忘れてもがき溺れていていることがあるので、たまにはふっと船の上に立って、遠い海原の先を落ち着いて見渡すことも必要かもしれない。わたしがその先の人生でしたいことはなんだ?と、漠然としながらもちゃんと見据えて考えることも、たまには必要なのかもしれない。

 

 

 

指導案を書こう。とりあえず今、目を背けている現実を見据えたいと思います。明日の昼までに完成していることを祈って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おじいちゃん、なにもできなくて、不甲斐ない孫でごめん。おじいちゃんの孫でよかった。どうかあっちでも、お酒を飲んで、お菓子を食べて、冗談を言って、楽しく過ごしてください。それから、おばあちゃんやわたし達がしあわせに暮らせるように、どうか見守っていてください。

おじいちゃんありがとう。お疲れさま。