ここだけの話

今から歌うことここだけの話にしておいてね

作ってみせるその笑顔も愛しいから

発狂しそうになったから、めちゃくちゃ歩いた。

思えば昔から何かが爆発するとすぐに市内を夜中から明け方にかけて歩き回っていた気がする。

コンビニをはしごしながらお酒を買い繋いで、飲みながら泣きながら、夜中に河原町から京都駅まで歩いたこととか、明け方烏丸を直進して二駅分歩いたこととか、ずっと忘れていたのに、ふと思い出した。

どうしょうもなくなったときにやる行動は大体決まっているのかもしれない。

 

ずーっと下がると、梅小路公園についた。朝の5時半だったのに、人がちゃんといた。こんなに人の姿に安心したことないかもしれない。

公園を歩く人、走る人、健康器具にぶら下がるおばちゃん、ダッシュする運動部らしき少年、弾き語りをするおじさん、あとどっか懐かしいようなツツジと桜の花道の、土と草の匂い、ちゃんとそこには人の存在があって、ちゃんとみんな生活してて、なんか安心した。

 

家に引きこもってると、本当にろくなことがない。やる気が失われてゆくし、それをどうしょうもなく、焦って余計に駄目になっていく。

携帯もテレビも何一つ明るい話題がなくて、ただただ時間を奪っていく。

自分のせいなんだけど、人との縁もどんどん切れてってるような気がする。

あれ、もしかして今わたし、わりと身寄りのない一人きりなのでは?みたいな気持ちになってくる。

 

だからコンビニとスーパー以外に人がいて、ちゃんと生活してる事実が本当に救いになった。

 

陽の光浴びるとか、体動かすとか、大事だなあ。

あと、おじさんが下手くそな歌とギターを楽しそうに弾いてるの見て、また歌いたくなった。

休みの間に、勉強しなきゃいけないこととか、読まなきゃいけない本とか、そういうのがあるから、って禁止してた歌とか楽器とか、あれってすごく健康に暮らすために必要なものだったんだな。

実家帰ったらギター取りに行こうかな。

とにかく今は早くあったかい布団に潜り込んで眠りたいな。

 


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街、ちゃんと生きてるな

 

すぐに忘れちゃいけない

ほんとうに過食したときのカップ麺って味が無いんですよ。わたしはさっき初めてそれを知りました。たぶんホルモン周期のアレのせいなんですけど、お腹が空いてないのに何かを口にしてないと駄目なゾーンに入ってしまって、まぁ週に一回くらいこんな日があってもいいか、なんて思ってたらどんどん食べ物を口に入れ続けてしまいました、この時間に。おわってる。

 頑張りつづけて、ぷつっとこれ駄目なやつだな〜ってなった時歯止めがかけられないのがわたしの駄目なところです。食べないとストレス発散できないと思って食べたのに、余計に鬱屈としてきた。

 

 こういうときは沈み切る、暗くて美しいものに触れるのが一番なんですよ。今カネコアヤノにめちゃくちゃハマってて、明け方という歌があるんですけど、「不安なまま朝を迎えてしまった」っていう歌い出しから馬鹿みたいに良いんですよね。「言わなくていいこと沢山あるね」とか。間違いないよな。知らなくていいことを知らないままでもちゃんと人との関係は築くことができるんですよね。

 カネコアヤノはたぶんめちゃくちゃジェンダーに対する意識が強いんじゃないかなあと思って、それにもすごく共感するんですよね。女だから、女として、とか大嫌いなんじゃないかなあということが歌からも言動からもバシバシ伝わってきて、それを隠しもしないし公な言葉は使わないけどめちゃくちゃ表に出してるのが格好良いんですよね。最近SNS見てたら女の権利の主張とかフェミがとか色々回ってくるせいで割と敏感になってるのもあるし、隠れた共同体認識とでもいうのか?昔から続く文化的に常識と化してる女性差別を今の文化に合わせて正そうって話をしてるのに、全然意味を理解してない人とか見て無駄に落ち込んだりしてるせいもある。このご時世といえどもまだ昔ながらの考え方の人ってやっぱ現実世界でも殆どを占めてるし、特に男の人は。そういう人に対しては世界観の認識自体が違うから反論してもどうせ無駄に傷つけられて終わるだけだし、だから思ってても相手に気を遣って言えないことは多いんですけど、そういう形にしにくいものを象って歌にできるカネコアヤノがめちゃくちゃ格好いいです。誰かを愛するとかうんたらとかを歌うとき、女だからこういう形が理想で、男だからこういう姿勢でなくちゃいけないとか、馬鹿馬鹿しいし、その奥にあるものは普遍的で同じものだろ、世間の言葉にお前自身を左右されんなよって感じが好きです。

 

 何の話だっけ、あ、あと羊文学とかも暗くて美しいに分類されている。きのこ帝国も暗くて美しくはあるけど、わたし自身の記憶とか手垢が付きすぎて、別の意味を生成してしまうので駄目。

 卒論で色々やっててすごく思ったんですけど、小説とか文学とか歌詞とか音楽とか文字とか?そういうものは、網膜に映したり鼓膜に振動が届いた時点では「ただのインクの染み」や「ただの音波」で、それに意味を生成するのは常に読者、聴き手自身なんだな〜ということ、最近凄く実感する。だから人によって受け取り方が違うんですよね。そんでその意味は、その人が生きてきた文化共同体とか、育った環境や背景によって作られた考え方とか価値観に依るんですよね。研究とかでは自分の中の文脈っていう言い方がよくされてたけど、その文脈について、他者と全く同じものを共有することは無いということを知るところから他者理解とか自己理解なるものはスタートするんだな〜と思う。それに気づいて初めて他人の言動の背景とか、なんでこの人こんなこと言ってんのかな〜とかに注目してみよっかな、と思える気がするので…。まぁ永遠に他者を完全に理解するのは無理なんですけど。どこまでいっても自分の認識から出ることはないので…。でもそういう自覚?が話してて無いなって人に出会うと、あっこの人無い人なんだな、少なくともわたしの前では出さなくていいと思われてんだな、ってスン、となってしまう。同じ土俵に立つのもしんどくなる。

 なんでこんな話したっけ。あっ、だからきのこ帝国は、わたしが元々持ってた文脈と違う文脈が自分の中に書き足されすぎて、元の純粋な気持ちで聴けないから今は駄目ってことが言いたかった、のか?な?

 なんにせよそういう自分の認識とか今いる立ち位置とかに敏感に生きていきたいですよね。自分の選択や行動の文脈を、自覚した上で信用して生きていきたい。

 

 あと短歌。今日はバイト終わってからもう何も頑張れなかったので、昨日買った「誰にも聞けない短歌の技法Q&A」って本読んでたんですけど、めっちゃ良いです。文語の短歌至上主義の人も現代の口語短歌ええやんって人も入り混じって素人のQに真剣に答えてる感じが良いです。前書きにもあったみたいに、価値観を異にする色んな流派の人が一緒に一冊の本作ったって感じが良い。あとやっぱ三十一文字ってギリギリに情感を盛り込めるけど、無駄な言葉は言えない感じが最高にクール。世界の切り取り方にハッとする。このブログは無駄な言葉だらけです。校正したら1段落15文字とかになりそう。でもその校正という作業はめちゃくちゃ体力使うしこれはこれで良いのです…。短歌全然上手く作れないけど、好きなのでやっぱりうまく作れるようになりたいな。大学院に行ったら、教授のやってる短歌会に勇気出して通ってみようかな。ボコボコにされそうだけど。

 

 あと数ヶ月で学部生活終わるけど、秒で人生過ぎて行きすぎて恐い。特にここ数か月、まじ秒だった。常に何かに追われて生き急いでなりふり構わず全力で生きて来ましたみたいな。一旦電池切ってボーッとする時間ほしい。これからやりたいことをゆったり考える時間ほしい。大学院に行ったら何しようかな。とりあえずちゃんと自分の勉強の為に時間を使うと決めてる。落ち着いてものを考えるということをちゃんとする。 鉛筆カリカリするような受験勉強を乗り越えたことがないせいで変に引け目があるので、地に足つけて一度ちゃんと勉強したい。

  先生になるために自信つけたい。最近出会う先生、めちゃくちゃものを知ってる人が多い。広く深く学んできていて、ちゃんと自分のものにしていて、その領域のことならどんな角度から人に聞かれても落ち着いて答えられる感じ。そうなるまでにどれだけの時間が必要なんや〜と思うけど、少なくともこんだけやったのでまぁしゃーない、そろそろ現場出るか〜と思える2年間にしたい。

 う〜ん。とにかく卒業旅行でヨーロッパに行くので、そこでいらん雑念を捨ててきたい。地球の裏側らへんにいらないものを置いてきたい。来期からもわたしが頑張れますように。

 

 

 やっぱり文章を吐き出したらちょっと落ち着く。まだ2時だし。まだ2時。卒論終わったんだから、今から実況動画見たって許されるし、本の続き読んでも許されるし。うーん、でも卒論発表会のレジュメ作ってないから心が重い。やらないかんことを後回しにすると何するにも自由だ〜って思えないのでよくない。よくないよ。でもやっぱり今日だけは自由だ〜って思いながら寝落ちしたい。暴食した自分を許してあげて好きなことさせてあげたい。明日は今日よりもちょっとだけ頑張ろうね。それでいいやん。充分じゃん。

 

 

ラカージュオフォールという舞台を見てくれ

無理な日っていうのがあるんです。起きられないし、なんか憂鬱だし、なんか気怠いし、なんか体重いみたいな。雨の日とか特に。ありません?そういう日が何週かに数回来るんですけど、昨日今日はほんとそんな感じだったんですよ。なんかめっちゃ無理なんですけど、予定があったり(その予定自体は楽しい予定のときも多い、行けば楽しいんだけど、予定までの時間が憂鬱になってしまうあるあるのやつ)、期限付きのタスクがあったり、無理なのに動かなきゃみたいな、やらなきゃいけないことに追われて一人で好きなことする時間が全然取れなかったり、そういうのがしばらく続くと突然「無理!!!」ってなって電池が切れるので、定期的にちゃんと誰とも会わずに一人で好きなこととか好きなものに好きなだけ触れる時間が要るんです。まぁそうそう取れないんですけど。自分のスケジュール管理のせいではあるんですけど。特に最近は卒論をそれなりにやってるんですが、あれって普通の授業の課題とかテスト勉強と違って終わりが無いんですよね。自己満足の域だから、とりあえず予定が空いて一人になれる時間ができたら、卒論のために読んどいたほうがいい文献読み進めとくか、みたいな。そうなるとほんと常に何かに追われてる気がして、「今日は絶対にやるべきこと何もやらねぇ」って決めないと、無限に自分の時間が無くなるんですよね。気持ち的に。もしかしたら他人に自分のスケジュール見られたら、「いやそんな頑張ってないじゃんw」ってなるかもしれないんですけど、自分の体感としてしんどいのが大事なので。ぎりぎり電池切れしないところで適度に回復〜って思えることをして、上手く自分の中でバランス取るのが、生き延びる中で一番大事なことのような気がしている。しんどいのキャパは本当に人それぞれですもんね。自戒もこめて。

で、今日はほんと無理な日だったけど個人的に色々頑張って及第点なので、夜はもうめちゃめちゃゆっくり好きなことしようと思います。自分の中でめちゃめちゃゆっくりしよう!!って心に決めてそのとおりにした時って一番回復した気がして元気になれますよね。なので宣言しただけです。

 

前置き長すぎ。私はどうしても憂鬱だったり元気がないとき、秘薬、特効薬として聴く音楽があるんですけど、それが「ラ・カージュ・オ・フォール」っていうミュージカルのサントラCDなんですよ。サントラCDというか、このミュージカルはオーケストラの人たちがオーケストラピットにいて、生演奏と共に進むんですけど、その音の抑揚とか、客席の拍手とか、曲の途中のセリフとかまで入ってる、舞台本番の録音音源ですね。今日も、ほんと無理だったのを乗り越えられたのはラカージュオフォールを朝から永遠にずっとリピート再生してたからです。ほんと毎回様様。私はけっこう舞台を見に行くのが好きで、年に何本か見に行くんですかど、本当にこの舞台を見た時からこれ以上の作品に出会えてないっていうくらい、本当に本当に最高の舞台なんですよ。CDを聴くだけですぐに、その場面や舞台の光景が思い浮かぶし、勝手に涙が出てくるんです。見たら絶対みんな元気になれると思います。勇気が出ると思うし励まされると思います。

とある先輩が「無理になったとき好きなものの話をすると元気になるというライフハックを知った」って話をしてて、ほんとその通りだなと思ったので、今日はちょっとこの場を借りてラ・カージュ・オ・フォールの話をさせて下さい。趣味語りなのでつまらんと思いますが、よかったらちょっと聞いてやって下さい。

 

 

ラカージュオフォールは、元々フランスの劇作家ジャン・ポワレが1970年くらいに作って、そのうちブロードウェイで演りはじめて、世界的に人気が出た、というのが始まりなんですかね?曖昧かよ。ロミオとジュリエットとか、レ・ミゼラブルみたいに、めっちゃ人気で有名なミュージカルってわけではないんですけど。日本でもけっこう前からやってて、最近は2012,2015,2018と3年おきに、鹿賀丈史さんと市村正親さんというめっちゃ大御所俳優さんのダブル主演で公演されました。

 

あ、舞台のフライヤー貼っておきますね。著作権とか大丈夫かな。東宝の公式サイトさんがリンク切れだったんですよね。かなしみ。まぁ大してこのブログ見てる人も少ないし大丈夫だろう。


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豪華絢爛でめちゃくちゃ楽しい、歌も踊りも衣装も華やか、その場にいるだけでドーパミンがすごい。身体が勝手に揺れだします。

 

 

わたしが初めて知ったのも観たのも2018年公演で、きっかけは若手俳優である推しが主役二人の息子役で出ることになったから、だったんですけど、本当に今では、もし再演があったら、推しが出てなくてもいいから絶対に観に行く、絶対にあの空間にゆく、前はなんとか無い金振り絞って3回見たんですけど全然足りなかったので次は5回は見たい、と思うくらいです(もちろん推しの演技や歌は最高でしたし、公演を追うごとに成長していくのが見て取れて嬉しかったしカンパニーの先輩方にとても可愛がられていて泣けました。再演でも推しがもう一度演じてくれたら最高ですが…)。グランドミュージカルを見た事自体もこれが初めての経験だったんですが、本当に主演のお二人の演技とか歌に圧倒されすぎて、魂が入った歌って、舞台って、こういうことなんだ、って思いましたし、主役の二人だけじゃなくて脇役さん一人ひとりにも個性があり、舞台全体のストーリーや音楽、美術、ダンス、全てに圧倒されてしまって、ずっとこの空間に居続けたくて、楽しい曲調なのに涙が止まらなくなったり、幕が開いた途端涙が止まらなくなったりしました(わりと常に涙が止まらない)。

 

 

ストーリーはこんな感じ。

南フランスのサントロペにあるナイトクラブ(ゲイクラブ)「ラ・カージュ・オ・フォール」の経営者ジョルジュは、店の看板スター「ザザ」ことアルバンと20年来夫婦として生活をしてきた。アルバンは、近頃老いを感じ、家にいる時にはふさぎがち。仕事にも気が乗らない。それでも、化粧をし舞台に立てば世界一の美女“ザザ”としてお客を楽しませ、アルバン自身もその事に喜びを感じる日々を過ごしている。
アルバンは男だが、ゲイであるジョルジュが過去に1度だけ女性と付き合って生まれた一人息子ジャン・ミッシェルを、生みの母に代わって慈しみ、育ててきた。
ある日、ジャン・ミッシェルは恋人のアンヌと結婚することを、父のジョルジュに報告する。しかしアンヌの父親は保守的で、ゲイクラブを厳しく取り締まるべきと主張しているダンドン議員であった。そのアンヌの両親が、娘の結婚相手ジャン・ミッシェルの両親と顔合わせをするために、ゲイクラブに隣接する自宅を訪問すると言ってきた。ジャン・ミッシェルはアンヌの両親に気に入られるために、一晩だけ両親がゲイではない『普通』の家庭を演出してほしいとジョルジュに懇願する。かわいい息子の頼みとあり、ジョルジュは抵抗するアルバンを説得し、ずっと会っていない実母のシビルを呼ぶ事にした。

ジャン・ミッシェルは、アルバンに対して、両家顔合わせの間は目立たないようにしてほしい、と伝える。しかし大事な息子の事が心配なアルバンは、普段はしたこともない男としての振る舞いの練習までして、叔父として同席する事に。
ところが、いくら努力してもアルバンは女としてのしぐさが抜け切らず、しかも実母シビルが(ドタキャンにより)来られなくなるというハプニングがあったり、ドタバタの末、アルバンは勝手に女装し、ジャン・ミッシェルの母親を名乗ってダンドン一家を迎えてしまう。娘の恋人の自宅を訪問したダンドン議員は、おかしな夫婦であるジョルジュとアルバンを見て、娘を嫁にやるのが怖い!と怒りだしてしまう。しかもはずみでアルバンのかつらがずれて、“男”だとばれてしまい………

Wikipedia引用・改変)

 

どうですか。めっちゃ細かく書いてしまいましたけど、1970年に作られた話としたら、めちゃくちゃデリケートな話じゃないですか。ジェンダーの要素とか。でも、コメディータッチで、登場人物を面白おかしく描きながらも、「あるがままの姿」を受け入れる事の素晴らしさ、自分を貫く強さ、どんな家庭でも変わらない家族愛の姿、を明るく描いた作品です。

公式動画を貼っとくんですけど、なんかもういろんな先入観を取っ払ってから見てもらえると嬉しいです。

 


『ラ・カージュ・オ・フォール』2018PV【舞台映像Ver.】

 

 私が見たとき、ジョルジュ役が鹿賀丈史さん、アルバン役が市村正親さんだったんですけど、本当にアルバンが。アルバンが、どう見てもかわいい女性なんですよね。中の人はおじさんのはずなのに。劇中に、舞台の準備をするためにドレッサーの前で化粧をしながら歌うシーンがあるんですけど、もう本当に、かわいいんです、そして強い女性なんです。わたしの憧れの女性はアルバンかもしれない。舞台に出るときの憂鬱とか、年老いてきた自分への不安とか、男なのか女なのかわからないと言われ、生きてる意味を見失いそう、そんな気持ちを少しずつ、化粧が完成してゆくごとに追いやって、自信を持ち直すんです。マスカラを塗るたびに、舞台衣装を着るたびに、強くてかっこよくなって、めちゃくちゃかわいくなるんです。そして何より歌が、すごいんです。静かに歌い出し、伏し目がちなアルバンが、少しずつ声高になってゆき、息継ぎが活発になって、目線が上を向くようになって………最後には笑顔で踊りだす。まずこのシーンでわたしは開いた口が塞がらなくなりました。市村正親さんがあまりにも魅力的でした。

 

 

市村正親さんの演じるアルバンの好きなシーンは本当にありすぎて書ききれないんですが、何よりいちばん、わたしが大好きなシーンがあります。ラ・カージュ・オ・フォールはこの歌のシーンが一番の代名詞と言ってもいいんじゃないでしょうか。

アルバンは、大事に愛情かけて育てた息子のジャン・ミッシェルに「お母さんが男じゃ恥ずかしいから、恋人アンヌとの両親顔合わせのときは引っ込んでてほしい」って心無いことを言われるんですね。いや、正確には息子に直接言われるのではなくて、それをジャン・ミッシェルから聞いたジョルジュによって間接的に、やわらか〜く伝えられるんですけど、それを伝えられたアルバンは凄くショックを受けて、でもその後すぐに自分のショーのステージへ出ていくんです。そこで、ぐちゃぐちゃな思いのまま、「ありのままの私」という歌を歌うんですね。

この歌が本当に大好きで、わたしがめちゃくちゃへこんだときとか、勇気が出ないときとか、必ず聴いています。聞いたら必ず泣きそうになって、元気が出るんです。あの、歌詞がとても良いので、引用してもいいですか。

 

ありのままの私の姿を見て
この世界に一人だけ それが私

けなされても 拍手を浴びても
関係ない 誰のものでもない
誇り高く生きるだけ

そうよ 私は私!

 

ありのままに嘘をつかず 生きてきた
自分の太鼓叩いて進む
うるさきゃ逃げて

やめてよ!お情けやお世辞なんか
自分の世界 好きなように生きる
羽飾り  ダイヤ  スパンコール
そうよ 私は私!

 

ありのままさ 言い訳はするものか
胸をはって引き受ける 
どんな賭けも

一度だけのこの人生
自分のカードは 自分の手でまく
どんなカードが来てもいい
そうよ!私は 私よ!!

 

このパワーのある歌を、力強く、心の底からの叫びのように歌うアルバン、複雑な自分を自分自身が一番に受け入れて、愛してあげて、肯定してあげる強さ。周りのヤジもやっかみも称賛も振り切って、私のことを決めるのは私だけだ、と言い切る強さ。わたしは自信をなくしたとき、絶対にこの歌を聴きます。そしてこの歌を欲しているときに聴くと、わたしは必ず泣いてしまいます。「ありのままの私を見て」と、逃げも隠れもしないで、今の自分をステージで堂々と魅せるアルバンの姿から、めちゃくちゃ勇気をもらいます。絶対に負けてたまるか、「自分のカードは自分の手で撒く」のだ、って強く思えるのです。

アルバンが魅力的なのは、ただ歌が上手くて可愛いだけじゃないのは、アルバンというキャラクターを演じる市村さんが、その芯からの強さを、歌から、表情から、仕草から、息継ぎの合間に漏れる息から、巧みに滲み出させているからだと思いました。この歌に限らず、鹿賀丈史さんが劇中歌う「砂に刻む歌」という曲でも同じことを思うのですが(この曲も、アルバンのことを若い頃から変わらず愛し続けるジョルジュの気持ちがめちゃくちゃ込められた最高の歌です)、わたしは注意深くこの舞台録音のCDを聞くと、しんと静まり返って緊張している客席の空気や、俳優さんが些細な息づかい一つ一つに役の魂を込めている姿、みたいなのを感じるんですよね。いや、多分きっとそれはわたしが実際に3回観た舞台を重ね合わせて妄想しているだけなのでしょうけど、本当にこの舞台はすごく、丁寧な気がするんです。鹿賀さんと市村さんは、劇団四季の頃から40年来?の付き合いがあるそうで、この役をお互いのタッグで演じるのも3回目だというので、どんどんと作り込まれていくのは当たり前なのかもしれませんが、本当にその演技の繊細さに感動します。めちゃくちゃステージにのめり込んでしまいます。いいから見てくれと言いたくなってしまいます。

 

アルバン、ジョルジュだけじゃなくて、どのキャラクターも本当に魅力的なんです。ラカージュオフォールというナイトクラブのショーに出る役者たちは、「カジェル」と呼ばれて、ひらひらピカピカ、羽飾りやリボンが沢山ついた華やかな衣装を身にまとって、10センチくらいある高いヒールを履いて、脚をこれでもかってくらい高く上げて、めちゃくちゃ陽気で楽しいナンバーに乗って歌い踊ります。カジェルの中にも個性があり、歌がめっちゃ上手いカジェル、SMプレイなカジェル、一発芸のあるカジェル……など、一人ひとりがすごく魅力的で愛らしいです。勿論みんな男性の役者さんです。本当にすごい。豪華できらびやかで、ハイテンションで、脳内麻薬がやばいです。

でもそこに、みんなが「ゲイ」だという事実を抱えている。「夜はブラジャー、昼はサスペンダー 男でも女でもない私」という歌詞もあるんですが、ラカージュオフォールで働くカジェルたちも、本当の自分と、現実の生活との狭間で生きている。でもそんなの、今は吹きとばせ!と言わんばかりのパワフルなステージ。ヒリヒリするくらいスリリング。「生きてる証拠掴みたきゃすぐラカージュオフォール!」っていう歌詞を歌ってるけど、ほんとその通り。ただただステージを見ているときは楽しいのです。不安も悩みも憂鬱も、難しいことは何も考えないでよくて、ただただその時間をもう一度過ごしたくて、何回も見てしまうのです。そして何回見ても楽しいのです。「ラカージュオフォール」という舞台を日本の劇場で見ているはずのわたしは、だんだん「ラカージュオフォール」というサントロペのナイトクラブの客席に座っているような気分になってきます。そういうわけでわたしが今行きたい旅行先はフランス、サントロペです。笑

 

 

 

 

はぁ、これぞ早口でまくしたてるオタクって感じの文章を綴ってしまいました。かなり痛いかもしれないです。でもここまで読んでくださってありがとうございます。舞台とかミュージカルとか、最近は2.5次元の影響ですごく流行っていますけど、例に漏れず私もそこから入った人でした。オタク趣味とか、ニッチな趣味とか思う人も多いと思うんですけど、本当に舞台観劇って最高なので、ぜひ一度行ってみてほしいと思います。特にミュージカル。「なんでセリフを歌いながら言うん?なんか笑っちゃう」って思う人も多いと思うんですけど、実際わたしも昔はそうやったんですけど、プロの俳優さんが何ヶ月も稽古をして、この歌のこの節で、この言葉で、こんなふうな目線を送りながら、こんなふうに指先を動かして、こんな感情を乗せる、って緻密に計算して、何度も練習して歌われるセリフは、めちゃくちゃ段違いで歌に深さがあります。そしてそれだけ毎日毎日稽古と公演をしていても、それでも本番の一回きり、そこにいる日替わりの客と舞台とによって作られるテンションで、日によって全然その一つの言葉に乗せられる感情が変わっていたりするんですね。その一回性がめちゃくちゃ尊くて、おもしろいです。まずは有名どころっぽいタイトルとか、知ってる俳優さんが出てる舞台とか、ぜひ見に行ってほしいと思います。一回でも生で見たら、ほんとに違うと思います。ぜひ。ぜひ。なんなら一緒に行きましょう。舞台は人生をすごくすごく豊かにしてくれます。ついでに言うと、舞台のチケットってライブとかと同じように何ヶ月も前から取っておくんですけど、少し先にめっちゃ楽しみな予定を置くことで、そこまでとりあえず頑張って生き延びなきゃなぁ〜〜〜〜俳優さんが全身全霊でぶつけてくるお芝居を全身全霊で楽しむために、元気に生き延びなきゃなぁ〜〜〜その楽しい時間を(結構高額な)チケットという形で確保するために、頑張って働こ〜〜〜〜と生きる目的と希望ができます。働く目的と希望もできます。人生が最高になります。 

 

 

 

ラカージュオフォールで、すごく好きなセリフがあります。

ジョルジュが、アルバンに両家顔合わせに出ないように説得を試みるんですが、アルバンは実母シビルとジョルジュと自分の「3人で」顔合わせに出るもんだと勘違いしちゃうんです。で、そうと決まれば!と張り切っちゃったアルバンは、いつもは遅刻ばっかりするショーの本番に、「お客さんを待たせてはいけないわ!」と早足に去っていくんですね。それを呆気にとられながら見送ったジョルジュが、愛おしそうに笑いながら言うんですね、

 

「君は永遠の驚きだ!」

 

って…………………………(号泣)いくつになっても、アルバンのことを心の底から愛していることがひしひしと伝わってくる、めちゃめちゃ大好きなセリフです。

 

 

もしかしたら、次の「ラ・カージュ・オ・フォール」再演は、鹿賀さんもだいぶご高齢だし、そのままのダブル主演キャストでは見られないかもしれません。悲しいです。しかも今までなぜかDVDも出ていなくて、どんなにあの舞台を浴びたくなっても、脳内再生するしかない。悲しい。もし続編が、2021年にあるのなら、ぜひDVD出してください。お願いします。絶対買います。というか、再演心から楽しみにしています。本当に待ち望んでいます。もし再演があったら、大切な人を連れて行きたい舞台です。パット見、イロモノっぽいかもしれないけど、全然そんなことなくて、普遍的な家族愛だとか、パートナーに寄り添う気持ちとか、そんなごくありふれたテーマを、めちゃくちゃ明るく、楽しく、幸せに描いたミュージカルです。見たらきっと大好きになってくれると思います。

 

 

本当に最後です。いっぱい大好き要素を吐き出して、まだまだ言い足りないけども、とりあえず満足したので寝ます。もちろんBGMは「ラ・カージュ・オ・フォール」のCDです。みなさんもぜひ興味が湧いたら貸しますので!youtubeにも東宝公式さんの動画が上がっておりますので!ぜひ一緒に!夢のサントロペへ行きましょう!今この時を、しっかり生きて愛して!

 


『ラ・カージュ・オ・フォール』2018PV

 

幸せのためならいくらでもずる賢く

すてきな夜をすごした。価値観の合う人と飲むお酒は、やっぱりめちゃくちゃ美味しい。価値観が合うというか、お互いのセーフラインが似ている、もしくは同じといった感じ。お互いちゃんと踏み込みすぎず、でも他人事でもなく、いい距離感でいようっていうのがわかって、だからとても心地いい。

そんな夜を過ごしたあとは、わたしはまだまだ発展途上で、まだまだやれることがあって、知らないことや、知らない領域で生きている人がたくさんいることを知っても、挑戦的な気持ちになれる。じぶんの限界を決めるのはあくまで自分なんですということに、改めて前向きにいられる。そんな感じ。

 

特に書きたいことはない。けど無性に文章を吐き出したくなるときがある。なんなんだろうこれは。別に人と話したいわけじゃなくて、聞いてほしいわけじゃないけど。なんなんだろう。

ちょっと前にこれ書きたいなあということがあったんだけど、なんだったか忘れてしまった。事象には鮮度があるのかも。自分にとっての。なんだったんだっけな。

 

そういえば、思い出した、前にツイッターで「自分が感銘を受けた言葉メモ集」をブログに公開している人がいて、その中に太宰治の斜陽を引用している人がいて、全くおんなじところを私も昔メモしていたから、それを発表するのもありなんだ〜〜と思ったんだった。人がどんな言葉に敏感に生きているのか知るのはすごく面白いことだと思う。私がメモを取り始めたのも、好きな二次創作の小説家さんの影響だった。かっこいいと思って。でも紙に書くのは苦手だから、やっぱりスマホで残している。一人でたまに見返して、そうだったなあって思うこと多々。もう一回見たら、改めて違う意味に取れたりもするし、見つけたときより、見返したとき、その瞬間のほうが、欲してる言葉だった、みたいなときがある。面白いなと思う。『こころ』とかも、読む年齢によって、全然こんな話だっけ!?ってなったりするって言うし、言葉ってすごい。陳腐な言い方だけども。

 

メモの内容をバーっと書いてみる。ついでにその時のことも思い出してみる。

 

 

 

 

ノルウェイの森
p14
そういう子を教えるときのコツはまず賞めすぎないことよね。小さい頃から賞められ馴れてるから、いくら賞められたってまたかと思うだけなのよ。ときどき上手な賞め方をすればそれでいいのよ。それから物事を押し付けないこと。自分に選ばせること。先に先にと行かせないで立ち止まって考えさせること。それだけ。そうすれば結構うまく行くのよ

p48
何もかも放り出して誰も知っている人のいないところに行っちゃうのって素晴しいと思わない?私ときどきそうしたくなっちゃうのよ、すごく。

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初めての村上春樹。たしか同じ登場人物の台詞だった気がする。

 

 


僕の書く下手な詩はたぶん世界を救えない
メランコリニスタ/YUKI

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大好きなYUKIの歌詞。こんな天才でもそんなことを言ってしまうんだ、という気持ち。

 

 


こんな甘いのにシュガーレスって書いてあるしんどいなもうずっとしんどい

/兵庫ユカ

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たまたまネットで見かけた短歌。ずっしりしてる。甘いのに。そういうときある。暗唱できるくらい好き。

 

 

 

ご無事で。もし、これが永遠の別れなら、永遠に、ご無事で。

/太宰治「斜陽」

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先述したのはこれですね。多分至るところにコピペして名言として載ってる。

 

 

 

あくびがうつるくらい近くにいても
さわれない関係ならどうにもならない

/河原和音「先生!」

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めっちゃ好きな少女漫画。詩的だし、どうしようもなく切実。河原和音さんの漫画は何読んでも泣いてしまう。

 

 

 

朝雨目が覚めたら革命が終ってた
なんてのが いいわよ
と 見知らぬ若い女
見知らぬ若い男からするりと逃げた。
いくら酒を飲んでも
耳しか熱く酔っぱらわないことがある。
二月の底冷えのする とある酒場で
ぼくはぼくのからだを持てあまし
ぼくの耳は はげしく
音楽に飢えていた。
/『耳』清岡卓行

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たしか江國香織のまとめた詩集の引用だった気がする。お酒飲んでも、馬鹿になろうとしても、どうしてもうまくいかないときとか。

 

 

 

東京は地上に星がある
/『国道スロープ』きのこ帝国

 

一瞬の世界の美しさに騙されて僕ら息をする
/『フェイクファーワンダーランド』きのこ帝国

 

記憶は思い通り風化する 窓際で君は外ばかり見ていた
/『風化する教室』きのこ帝国

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きのこ帝国を聴き始めたときにメモしたものだと思う。佐藤さんの詞のセンスはほんとに天才だと思う。天才とかそんな陳腐な言葉では言ってはいけないほど、大体の世の中のマイナスな、細分不可能な感情は、この人が歌い尽くしてるのでは?と思っちゃう。はっきり言って崇拝してる。

 

 

 

君はもっと好かれなくていい。君のスマホのメモリに友達が40人いたとして、月に1日その中の1人と会ったとしても、君は毎日フル稼働しても全員とは月に一回も会えないんだよ。例えが下手すぎるけど、つまり僕らのキャパはそんなに大きくない。君は両手で構えきれないくらい愛されようとしなくていい
/ それでも世界が続くなら 篠塚将行

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本人のTwitterのつぶやきの引用だったと思う。真理だなあと思う。嬉しいはずのものが、求めてたはずのものが抱えきれなくなったとき、もっと自己中でいてもいいのかな、って思った。

 

 

 

自分のしてゐる事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めてゐるに過ぎないやうに感ぜられる。その勤めてゐる役の背後に、別に何物かが存在してゐなくてはならないやうに感ぜられる。(中略)赤く黒く塗られてゐる顔をいつか洗つて、一寸舞台から降りて、静かに自分といふものを考へて見たい、背後の何物かの面目を覗いて見たいと思ひ思ひしながら、舞台監督の鞭を背中に受けて、役から役を勤め続けてゐる。此役が即ち生だとは考へられない。背後に或る物が真の生ではあるまいかと思はれる。

/『妄想』「鴎外全集」第八巻 岩波書店

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レジュメの準備してたときにたまたま読んだ資料だったかな。はっと今してることを俯瞰して見るような気持ちになった。こういうことに気づくかどうか、それが結構人生左右するのかな、みたいな。

 

 


觀察は人事と自然とを問はず尤も精密ならざる可からず,則ち人事の内に自然の中に人情は偶出すれば也。故に人惰を教へんと欲する必ず人事と自然との精妙なる描寫を要す,之れを描寫せんと欲する、則ち觀察を要す。
 ー彼はできるかぎり多くの風景を観察し、多くの美を発見する。そして自然の中にある人間にさらにすばらしい美を発見しました。そこには最高の自由がありました。

/『欺かざるの記』(3月31日)

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これなんだっけ。引用が杜撰すぎる。(笑)

たしか国木田独歩の「武蔵野」の資料探してたときに当たった文章。後半はその解説かな…。武蔵野について、なんでこんなにうつくしい情景をうつくしいままに書き記せるんだろうと思ったんだった。

 

 

 

常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ、ということなんだが、このことは、コペル君!本当に大切なことなんだよ。ここにゴマ化しがあったら、どんなに偉そうなことを考えたり、言ったりしても、みんな嘘になってしまうんだ。
/『君たちはどう生きるか吉野源三郎

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話題書だったから読んだけど、なるほどベストセラー、だった。学級文庫に置きたい。今読むと、何でもそうなんだろうなと思う。自分が聞いたこと、見たことから、自分が何を思って、何を知りたいと思って、何をしたいと思ったか、それが大事なのであって、聞いたことをそのまま記憶することほど無意味なことはないし、自分から発信された疑問とか思いは、並大抵のことで失ったりしないのかなと思う。だから自分の思いっていうフィルターを通すのはすごく大事だなと思う。

 

 

 

ベロニカは、人生において、行動を起こす瞬間(とき)こそが全てだと知っていた。

「ベロニカは自分の今までの生き方が大嫌いだった。自分の中の、おもしろく、異常で、好奇心旺盛で、勇敢で、毅然としている、何百というベロニカを一度も見つけ出そうとしなかったからだ」

p247「わたしの人生に意味を与えてくれてありがとう。わたしはこれまで体験してきたことを全て体験するために、この世界に生まれてきたの。自殺未遂をして、自分の心臓を壊して、あなたに会って、この城まで来て、あなたの心にわたしの顔を刻みつけさせた。それが、わたしがこの世に生まれてきた唯一の理由なのよ」
/『ベロニカは死ぬことにした』パウロ・コエーリョ 江口研一訳

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勇気の出る言葉。私がなにも持っていないと思うのは、私が何を持ってるのか、私自身が知ろうとしていないから。私は何かをできるかもしれないのに、何もしようとしたことがなかったから。たったそれだけ、ということ。

 

 

 

「これ以上望んだらあなたを失うかもしれないと思う恐怖なんて、あなたにはわかるはずがない」

/「スイートリトルライズ江國香織

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多分これを読んだとき、このまんまの気持ちぴったりの出来事が起こってたからメモしたんだと思う。こういうの、改めて見返すと、その時思っていたことや悩んでいたことや、感じていたことも思い出すから、嬉しいような、悲しいような。

 

 


「わたしをすきなひとが、わたしに関係のないところで、わたしのことをすきなまんまで、わたし以外のだれかにしあわせにしてもらえたらいいのに。わたしのことをすきなまんまで」    
/『死んでしまう系のぼくらに』最果タヒ

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今も思ってる。

 

 

 

「コーヒーにミルクを入れるとコーヒー牛乳になるが、ミルクを入れた瞬間、ミルクがまだ溶ける前の段階、それはコーヒーでもコーヒー牛乳でもない。小説が書くべきなのはそこだ」…曹文軒
/『使える!「国語」の考え方/橋本陽介

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引用の引用。小説の役割とは何なんだろう。今もわからないし考え続けてること。

 

 


手当り次第に調べるのではなく、まずは問題の性質を大づかみに把握した上で、自分なりの切り口を見つけるよう心がけたい。 調べれば調べるほど分からなくなってくる気がして、うんざりすることがある。が、投げ出す前に反省してみて欲しい。どこまでなら分かったのか。どこからが分からないのか。取り組む前に比べれば自分が確実に前進していることに気づくはずだ。
/「国語教師が知っておきたい日本語文法」山田敏弘

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講義の参考書だけど、そのまえがきかな?当たり前だけど、大切なことが書いてあると思った。泥沼に嵌りそうなとき、あくまで論理的に。考える。

 


 

「頭がいい人は、相手に説明をする目的と、相手にどこまで理解させる必要があるかを見極めることが上手い」
/ https://blog.tinect.jp/?p=35489&&p=35489&__twitter_impression=true

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URLとともに引用してある。偉い。(笑)日付ないけど(笑)さっきの、細分化することと似ているかも。

 

 


好きだった曲を好きなまま歳とっておんなじ歌詞になんどでも泣く

/岡野大嗣

 

愛のこと甘く見ていた 春の駅 人の気持ちを甘く見ていた /石川明子

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短歌2首。岡野さんの短歌はめちゃくちゃ好き。たぶん多くの人が感じたことがあることを、三十一文字に納めるのがうますぎる。石川さんのはなんだっけな。「短歌ください」に載っていたやつかな。自分が考えたこともなかったほどのあまりにも大きな、人の情とか、愛とか、優しさとか、そういうものを不意に受け取ってしまって、呆然とすること、ある。

 

 


嘘で守りたいものが分かるし、言い過ぎることで隠したいものが分かるし、本音を言わないことで囚われているものが分かるし、無言でいることで言いたいことが分かるし、軽率なことで大切なものが分かるし、育てた強さで一緒に生まれた弱さが分かるし、全ての在り方は本心に通じる。よく見つめさえすれば/森(@l_l__ii)

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この人!斜陽の言葉をメモしたブログを公開した人だ。この人の真似して私もこうやってブログに綴っている。誰が見るかもわからないけど。自己満足で。

ちゃんと見つめたら、ちゃんと分かるってこと、そのとおりだと思う。それは空気を読むのとは違って、文脈を読むことだと思う。空気とはその場の流れだけれども、文脈は、その人のことをちゃんと普段から見ようとしていれば、分かることだと思う。もっといえば、その人が生きてきた世界を知っていれば、それと照らし合わせたとき、分かることだと思う。曖昧な言い方になっちゃった。まだうまく言葉に出来ない。

 

 


人は人吾はわれ也とにかくに吾行く道を吾は行なり
/西田幾多郎

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哲学の道をぶらぶらしていたら石碑に書いてあった、哲学者のありがたーいお言葉のよう。人は人我は我なり。それ以上でも以下でもないのでした。自分が何をしたらいいかわからなくなっていたときに出会った言葉だったから、この端的な意味に、すっきりしたなあ。

 

 


恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。わかっていますか
/「こころ」 夏目漱石 P39

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こころを引用するならここだろうなあ、ってくらい、見飽きるほど見た言葉ですね。でもやっぱり、好きなんですよね。多分二回目に読んだときにメモしたんだと思う。恋の満足を味わっている人はもっと温かい声を出す、先生はそれをどんな気持ちで言ったんだ?何を思い浮かべて言ったんだ?

 

 


恋人がわたしのことを好きで好きで仕方ないって様子を見るたびにせつなくなる いつか終わるそれをなんどか、見てきて、この身に染みている わたしも、あなたのことが好きになってゆくたびにかなしい 好きよと言葉にできないくらいには好きよ
/see(@pemeom)

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Twitterからの引用多いですね。しかも一般の方のツイートの引用だからなんか勝手にメモしてごめんなさい、という気持ち。

このツイートはひとつの小説みたい。こんなに短い言葉のうちに、無限なほどの時間の経過を感じる。諦めとか期待とか。

 

 


道ばたで死を待ちながら本物の風に初めて会う扇風機
/岡野大詞

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意味がわかった瞬間、天才だと思いました。

 

 


愛こめてどうか不幸であるように君無き春の我無き君へ
/吉野朔美

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どこから引用したっけ。忘れちゃった。君なき春の我無き君、というのが好きすぎる。いつまでも我だけが引っ張られている、でも君も同じなんじゃないかとどこか期待する。好き…。

 

 


「息をのむほど美しい」より、あなたが「美しくて息をのんだ」かどうかが大切なんじゃないか
/ヨ田(@yo_k_t)

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評価なんかより、実感が大事。なのかな。とくに芸術においては。

 

 


けれども自分は、竹一の言葉に依って、自分のそれまでの絵画に対する心構えが、まるで間違っていた事に気が附きました。美しいと感じたものを、そのまま美しく表現しようと努力する甘さ、おろかしさ。
(p40)

ああ、人間は、お互い何も相手もわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。
(p100)
/人間失格 太宰治

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最近読み直した人間失格の引用。すごい小説ってほんとすごくて、何がすごいかというと、読んだその時の自分の問題意識によって引っかかる言葉が全然違うんですよね。すごいですよね。たぶん5年前はこんなところ、全く気にかけてなかったと思います。これを引用したときの私は、きっと「芸術ってなにをもって評価されるものなんだ?どんな芸術が『いいもの』なのか?」ということが問題意識としてあったんだと思います。今の時点での自分の中の答えは、「芸術家がどんな形であれ、自分のいっさいを剥き出しにして、顕にして、造ったもの」かも。

 

 

 

三十一文字で三十一文字ぶんのことしか伝えられなかったら、それはもう電報だ。
/言葉の豊かさに触れること『文學界』2019年9月号 ( 俵万智

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短歌の真理か。と思った。なんでこんなに短歌に惹かれるのかと思ったら、たった三十一文字で、もっともっと多くのことを語ってるからなのかも。

 

 

 

 

 

 

引用の方法がめちゃくちゃ不統一で申し訳ない。その時の勢いで引用してるから、あんまり深く考えてないと思う。「好きなことばメモ」の他に、好きな単語メモもある。かっこいい言葉とかきれいな言葉とかやさしい言葉とかうつくしい言葉とか。なんかそっちのほうは恥ずかしいので載せないけど。

書き出してみたら思ったより少ない。わざわざメモするほど響いたものしかメモしてないからかも。でもこのくらいのペースがいいよ。私に合ってるよ。懲りずにめげずに、言葉の引き出し、もっともっと増やしていきたいと思いました。

 

タイトルなんも関係ないな。「幸せのためならいくらでもずる賢く」と歌うカネコアヤノが大好きです。かっこいい言葉だったから引用しただけ。

でも今日は、リーガルリリーが心地よい夜です。

今から宣戦布告

文章を書きたくなるときってどんなときなんだろうな。というか、文章だけじゃなくて、曲を作りたくなるときとか、絵を描きたくなるときとか、歌いたくなるときとか、楽器を弾きたくなるときとか、そういう自分の中から何かを生み出すときの根源的な欲求ってどこからくるんだろうな。誰かが、自分の中になにかドロドロした悩みや不安やら、吐き出したいものが溜まっているからそういうものができるんだ、なんにも悩みがなくて平和で幸せな人の作り出すものなんてつまんないんだって言ってた気がするけど、わたしはそうはあんまり思えない。というか一概にはそう思いたくない。そもそも他人の幸せの基準なんか本人以外誰にもわからんし。めちゃくちゃ幸せそうでも奥底でめちゃくちゃなんかを抱えてるのかもしれないし。どろどろしたそれが他人に表立って見えてないと、作り出す活動はしてはいけないのか?する資格がないのか?って思ってしまう。もちろん見えてる方がバックグラウンドが分かるから響きやすいとか、そういう受け取る側が作り出す側の人をどんな人だって見てるのかによって、変わるものはあるんだろうけど。じゃあなんだろう、承認欲求?自分の感じたことを誰かに知ってほしい?それもあるけど、それが満たされたらある程度解決するものがあるのは事実だろうけど、それだけでもない気がする。わかんない。なんの為に何かを生み出すんだろ。

 

教育学の中にも、哲学部門と実証部門と実践部門の3つがあって、それは本当に良いって言えるのか?教育はなんの為にするのか?っていう哲学と、教育を科学的に理論化する実証と、2つを基に効果的な実践方法を考える実践があるらしい。きっとこれって何においても一緒だよなあと思う。音楽を作ることだって、なんの為に?どういうものが良いと思うのか?を考えるのと、いい音楽にするための音楽理論と、それをメロディや歌い方や弾き方に落とし込む実践があって、世の中にそのうち一つでも欠けてたら、バランスが取れないんだろうなあ。私は教育のことにおいては「なんのために?」「それをして何が身につく?」っていう教育哲学(って言えるんかな?)を突出してめちゃくちゃ考えてしまうから、全然研究が進まない。というか、新米教師としては多分小手先の授業構成や上手い喋り方とか、そういう実践的な技術を磨くのが先なんだろうけど、どうしても「その実践ってほんとに意味あんのかな?」みたいなことが気になってしまう。国語とかいう、一番目標や意義が曖昧な教科だから尚更。それが面白いところでもあるんだけど。

 

話が逸れた、教育においてはそういう根源的な意味みたいなものを考えがちだけど、じゃあわたしが今書いてる文章とか、コピーバンドをやる理由とか、さらに作った何かをネットに載せる理由って何なんだろうなあと思う。もちろん何も考えないでやることの方が多いし、それ自体が楽しいからやるのであって、理由と言ったら大袈裟だけど、書きたいなあ歌いたいなあと思う衝動はどっから来てんのかな。

 

今自分が書いた文章読み返してて思ったけど、もう最初の方に答え書いてあるな。どろどろした感情が他人から見えるにしろ見えないにしろ、他人に承認されようがされまいが、自分の中に生まれてるなんかの感情を形にして放出したいってだけなんかな。自分の中にあるもやもやした何かを形にすることで、自分で自覚して整理したいんだろうな。もやもやだけじゃなくて、わたしが綺麗だと思ったこととか、素敵だと思ったことも、自分でもっと綺麗に整理したり、そのままの綺麗さをできるだけ失わないようにしたりして、自分に何度でも見返せる形でもう一回突きつけたいんだろうな。わたしはきっとそうなんだろうな。それが満足になるんだろうな。完全に独りよがりだな。もちろんバンドだったら、その時点で誰か他の人と一緒に協働してつくるときの歓びが加わるけど。

その営みによって得るものにプラスして、他人に見られる可能性があること前提で作り出したものであれば、吐き出したものにもし誰かがいいねって言ってくれたり、良くないねって言ってくれたり、全く無反応だったり、作り出す前と何らかの変化があることで、また上乗せして自分の中に感情が生まれるから、次の何かを生み出す原動力になるんだろうな。特に、いいねって言ってもらえたら、わたしが考えていた根源的な「なんのために?」を肯定されたような気がして、もっとその方向でやっていこうって思えるから、嬉しいんだろうな。「なんのために?」っていうのは、自分の人格とか生きてきた中での考え方が一番密接に関わってる部分だと思うから。逆に良くないねって言われたとき、もう一回根源的なところから考え直すから、すごく成長するんだろうな。前にコピーバンドを見てくれた先輩に、「お前の歌は上手いだけでなんにも伝わってこん。」って言われたとき、当初はめちゃくちゃ悔しくて腹立ったけど、それから全然コピーバンドするときの気持ちが変わったもんな。考え直した結果変わるにしろ変わらないにしろ、方向性が強固になるか、別のベクトルを試してみるか、いいことしかないからな。

 

このブログとか特にそうだけど、ほとんどの記事をシェアせずに、めちゃくちゃ長い文章書くときとか、ツイッターのフォローフォロワー0の鍵垢で思ったことをポンポンツイートするときとか、自分の中で考えたことをただただ整理してるんだろうな。日記でやれよって思う人もいるだろうけど。基本手書きが苦手だから日記は続かない。

それに加えて、もしこのブログみたいにたまたま入った誰かが見てくれて、なんかの反応してくれたり、反応がなくても読まれた形跡だけは残っててるから、誰かがこれを読んでなんかを考えてくれたりしてるかもしれないって思ったら、相乗効果で生まれるものが増えるから嬉しい。それが正の連鎖かどうかは分からんけど。

 

なんでこんなこと考えだしたんかというと、弾き語りのライブに出させてもらうことになって、コピーだけじゃなくて折角だからオリジナルの曲を作ろうと思ったとき、わたしが作りたい曲ってどんなんだ?って思って、そもそもなんの為に曲を作るんだ?コピーでいくらでもいい曲があるのに?と思ったところで停滞したから。わたしは漸くわかったぞ。まず自分が吐き出したいから、満足するために作る。それを誰がどう思ってくれるのかは、見てもらわない限り分からん。終わり!まあ思った通りの自分が満足する曲を作る技量も経験も足りてないので、相変わらず曲作り難航するけど。たのしみだな。ライブ。

戻ることも嘆くこともない

ひとと一緒にいるということはどういうことなのだろうかとよく考える。価値観、もっといえば言葉の感覚が似ている人と一緒に過ごす時間はとても楽しい。言ったこと、伝えたことを殆ど100%に近い形で感覚も含めて共有できるから。お互いの話に耳を傾けて、わかるところ、自分が感じた同じような体験に対する同じような感情、逆に少し違ったところ、すべてわかり合えてるな、という感覚がある。ごく数人にしか出会えたことはないけど。とてもとても貴重な人たち。感覚を共有できることは、自分の考えることに対して自信になるし、同じ次元の中で、少しずらした視点としてものを見られるようになるという点でとても勉強にもなる。

だけど、そういう人が、必ずしも恋人になったり、親友になったり、一番近しい人になるわけではない。なんでなんだろうか。価値観の近い人とそういう関係になり一緒にいられれば、それに越したことはないんだろうけど、惹かれる人や、一緒にいたい、支えたい、しんどいときにどうしても私が助けになりたいと思う人は、必ずしも「価値観が同じだから」そう思うのではない。

だからこそめちゃくちゃしんどいときがある。わたしが感じるしんどさについて伝えたい、わかって欲しいのに、たとえ伝えても意図どおりには伝わらないだろうなと思う気持ち、しかもそれを分かってあげられない、と相手が余計にしんどくなるのもわかっているし、わたしが言ったことで無理矢理意識して、しんどいだろうなあと思ってもないのに仕方なく労られたり気を遣われるのも意味ない。だから何も言わないでひとりで解決するほうが早い、と思うのに、やっぱり黙っていられなくて、一緒にいるとわかってほしい、と思ってしまって、この葛藤をどうすればいいんだろう、と思ったら、結局一度離れるしかなくなったりする。一緒にいない間に、わたしが一人で自分のしんどさを受け持って消化できるようになるよう頑張って、強くなるしかない、と思ったりする。そしたら、わかってもらえなくても、全く気づいてもらえなくても、わたしは一人でやり過ごすことができるから。でもそれは、めちゃくちゃ寂しいけど。相手にわかってもらうことを諦めることだから。ほんとうは、わからなくてもいいから、受け止めてほしいなと思う。こうしたほうがいいとかじゃなくて、ただただ受け止めて、わたしのしんどさ、それをしんどいと感じるわたしの弱さを受け入れてほしいと思うだけ。

 

でも人が一緒にいる理由は、違うからこそらしい。全然価値観が違うから、ふたりは別々の人間だから、別の立ち位置で生きていて、生活してきた環境も違うし、そういう違うふたりがたまたま一緒にいるから意味があるらしい。ふたりとも合ってるし、ふたりとも間違ってるかもしれないし、でもそれを両方肯定しながら生きていけたらいいらしい。落語では、それを「人間の業の肯定」っていうらしい。

じゃあ価値観の違うわたしたちが一緒にいることには意味があるのかなあと思う。わかりあえなくてしんどいと思っても、しんどいのは当たり前で、まあ違うよねって、違うからこそ、なるほどなあ、大変だなあ、たしかにそれはしんどいかもしれないなあ、頑張っててえらいなあって、ふたりともがふたりともをわからないなりに肯定して受け入れられたらいいのかな。

 

わたしはさっき、わからなくてもいいから、受け止めてほしいと思う、こうしたほうがいいとかじゃなくて、それをしんどいと感じるわたしの弱さを受け入れてほしいと思う、と書いたけど、それはわたしが、価値観が違う相手に対してできてなかったことなのかもしれない。相手にもっとうまく生きていってほしいと思ってしまうからこそ、わたしが思う価値観でこうしたらいいんじゃない、って言いたくなってしまうけど、またそれは価値観が同じ人に対してはとても実のあることなのかもしれないけど(実際に価値観が同じ人に言ってもらえるアドバイスはとてもすんなり腑に落ちる)、それは価値観の違う相手にとってはしんどいだけかもしれない。もちろん、大前提に「こう変わりなさい」って言いたいんじゃなくて、どんなしんどさを抱えるあなたでも好きで、少しでも楽になって欲しいと思う気持ちがあることは抜かしてはならないけど。

 

いろいろぐるぐるしてる。わたしが弱いのは、そういう葛藤を一人で解決しなくちゃいけないのに、相手にまでぶつけてしまうところ、ちゃんとなににしんどさを感じてるのか説明してないのに、ひとりで爆発して巻き込んでること。でもわりと限界だったの、ひとりで強くなろうと思ったけどむりだったの。くるりの虹をたぶん今日だけで150回くらいずっと聴いてる。ぜんぶわたしが弱いせいだから、今のわたしの愚行のせいでどうなってしまっても、戻ることも嘆くこともないのだ。戻ることも嘆くこともする資格なぞないのだ。自業自得なのだ。

 

昨日ひねった足首がずっと痛い。足首じゃなくて、ふくらはぎから太腿までの筋が痛い。力が入らない。ひさしぶりに身体の痛みを感じる。身体の痛みを感じるほどの運動を最近なにひとつしてなかった。「右足の痛みがなくなんないままで加速してゆく日々の中」だなあ。右足じゃなくて左足だけど。

昼夜逆転生活がずっと治らない。夜勤が終わって、4時頃寝て、そしたらやっぱり14時くらいまで起きられなくて、ちゃんと動き出すのが16時からとかで、そこから夜中の3時頃まで集中力が続く時間が来るけど、世間との生活サイクルが違いすぎて、その時間でちゃんと集中する環境が作れない。普通の人とのサイクルも違うから、周りに合わせていると、一番集中できる時間に一日の終わりの休息タイムが重なって、ごはん食べたり遊んだりして、1時とかの常人の寝る時間に全く寝られず無為な時間を過ごして、やっと4時頃眠くなって寝たらもう次の日の昼14時だ、みたいな、一日何もできなかった、絶望、みたいなのが続いてちょっと精神によくない。自分で決めたこと、なんにも成し遂げられてないのがよくない。昼夜逆転を治すのはもう諦めた。夜中に集中できるようにするぞ。

 

なんのまとまりもない文章だな。鴨川にずっといる。大雨。こんな時間でも土曜日の夜だから何組かカップルがいる。四条大橋の下は暗いけど、三条大橋付近はわりと明るい。疲れた。でもどこにも帰れなくて、帰る気になれなくて、勉強して、疲れた。日が昇るまであとちょっと、始発まであとちょっと。夜中でも、都会だから、居場所はどうにでもなる。どうでもよくなればどこでもある。でもわたし自身のことはどんなに逃げてもどうにもならないから、はやくだれか助けてほしい。とか言ってみる。言うくせに今どうしても人と関わるのが億劫で恐い。人と関わったり人の感情を請け負う余裕がなさすぎる。ごめんなさい。人はつまるところ他人に興味なんてないんだから、自分で助かるしかないのは分かってる。強くなりたいなあ。

手の中の残り火

また自作短歌です。眠れないときは好きなカップリングの夏を想像するととっても眠れなくなります。蒸し暑い中で誰より真剣にバスケットボールに励む推しの学校の体育館の電球になりたいと公言していた高校時代でした。なんか生きていく意欲が湧くのでお勧めです

 

 

 

 

 

 

 

 

舞台とは夢の中にいることで人生の輝きを歌う場所だよ

 


五月病 僕だけ置いて行かれてる どこでもない場所に連れてってくれ

 


くゆられるシーシャの煙で巡る酔 全てが白く滲んだ夢だ

 


この手から逃げてしまいそうなものほど追い縋りたくなるものですから

 


君の目があまりに甘く好きだって伝えていたから見ないふりした

 


今更に好きだと自覚してしまう 涼しい夜に声を聴いてる

 


知っている 心地いいのもつらいのも なぜなら去年のわたしだから

 


きみの名前の由来を知ってますます愛せてしまう日々

 


君のその無頓着さが愛しいの誰にも守られなくていいから

 


頬に触れた手を払えないぼくたちの甘さとずるさを許してください

 


とどめ刺す一撃をくれる影がもし きみならゆるく死ねるのになあ

 


ごわごわの鳥の巣みたいな髪を撫で柔らかくぬるい頬にふれる

 


猫カフェかぁって乗り気なんかじゃなかったじゃん 猫なで声まで出しちゃってさあ

 


中庭のバレーボールが跳ねている校舎の壁と影がゆれている

 


何十回試しても小吉のまま あなたの苗字と私の名前